論点:
真理の審級は、私たち一人一人の人間を超越している。
「哲学者の仕事とは真理を言葉にもたらすことである」ということで、しばらくはこの真理なるものについて考えてみることにしたい。
誰でも、人間ならば年を重ねるうちに「人生ってこうだよね」とか「世の中ってこういうもの」といった思想を多かれ少なかれ築き上げてゆくものである。これはいわゆる「人生哲学」とも呼ぶべきもので、この意味での「哲学」なら、「あの人には哲学がある」「これが俺の哲学だ」といったような表現の形で、日常生活の中でも使われることが少なくないであろう。
だが、こういう「人生哲学」は哲学としてはやはりまだアマチュアの領域にとどまっているのであって、哲学徒としては、それを超えた「プロの領域」を目指さないわけにはゆかないのではあるまいか。
繰り返しにはなってしまうが、哲学においては、「俺的には/わたし的にはこう」では駄目なのである。隣人、自国人や、場合によっては外国人、そして過去の先人たちとの飽くなき対話を積み重ねていって、「これこそが真理だ」と呼べるくらいのものに到達することこそが哲学徒には求められているのではないか。
追い求めねばならないのは、人生哲学ではなくて真理そのものである。どの国、どの時代、どんな人にでも通用するべき、究極の人間学と形而上学である。そこに実際に到達できるかどうかはともかく、少なくとも理念としては、そのような「真理ソノモノ」にたどり着くことこそが、哲学徒の人生の第一目的なのではあるまいか……。
さて、今一度確認しておきたいのは、このような真理そのものは、私たち一人一人の人間の思考や推論を全く超越しているということである。
この世のどんな権力者といえども、三角形の内角の和を180度よりも大きくすることも小さくすることもできない。それは決してそれ以上でもそれ以下でもなく、寸分たがわずにピッタリと二直角=180度でしかありえないのである。真理にはこのように、「それを思考している人間の方がびびって尻込みしたくなるほどに、ドンピシャで妥当する」という側面があるように思われるのである。
アウグスティヌスはある本の中で、真理のことを「それよりも優れたものがありえぬような適合性 convenientia, qua superior esse non possit」と呼んでいる。いま話題にしているような真理の「ドンピシャ性(とりあえずこう呼んでおく)」を表現するのに、これ以上ないほどに的確な表現である。話すことが好きな人のうちには、「なんか知らない間に、何かの話題について話しているうちにドンピシャな真理が現われ出てきてしまって、話している自分たち自身の方がびびる」といった体験をしたことのある人も少なくないであろう。
真理は本質的に、向こうからやって来る。人間にできるのはそれを作り出すことではなく(cf.構築主義とは、おそらくは近代という時代が垣間見た夢想に過ぎまい)、それが自らを示すまさにその時に、それが自らを示すまさにそのままに語り出すことに過ぎないのではあるまいか。真理と超越というこの主題について、いま少しの間立ち止まって詳しく考えてみることにしたい。