イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

確実性と事実性

 
 論点:
他者であるあなたの心の存在をめぐる真理については、確実性ではなく、事実性という語をもって語られねばならない。
 
 
 近代哲学の伝統においては、真理は確実性というタームと切り離すことができない仕方で語られてきた。ここで確実であるとはすなわち、認識の主体であるわたしの意識に明晰判明に与えられているという意味で、真であることが意識との相関において保証される、という事態のことである。
 
 
 哲学の歴史は、人類そのものの歴史と深いところでつながっている。典型的には、デカルトからカントを経てフッサールに至るコギトの哲学において前提とされているこうした真理観は、それとは気づかれないうちに、現代を生きている私たち自身の現実の捉え方をも規定していると言えるのではないか。
 
 
 確実性としての真理という真理観は、それによって支えられ発達し続けてきた近代科学と技術の存在と合わせて、現代の世界そのものを規定している。このことが現代の人間の生活意識影響にまで及ぼしている影響のいかんを詳細にわたって問うことはここでの課題ではないけれども、恐らくは、その影響の深さはどれだけ深く見積もっても行き過ぎるということはないであろう。この意味では、二十一世紀を生きている私たちは、依然として十七世紀の「デカルト革命」によってもたらされた人間性の変容の余波を被りつつ生きていると言わざるをえないのである。
 
 
 
確実性と事実性 デカルト革命 デカルト カント フッサール コギト 真理とは何か 形而上学
 
 
 
 これに対して、今年の六月から十月にかけて「真理とは何か」という問いを問う中で私たちがたどり着いた結論は、次のようなものであった。
 
 
 真理の超絶:
 真理とは、認識の主体であるわたしを超えて、あるものが、それがある通りにあるという、そのことである。
 
 
 真理とは「あるものがある」ということであって、その根源とはただ事実としてあるという、その事実性にある。「事実性」というタームは一見すると非常に素っ気ないもののようにも見えるけれども、探求を進めるにつれて、人間が形而上学について語る上では欠かすことのできないものであることが次第に分かってくる。
 
 
 他者であるあなたの意識は、認識の主体であるわたしの意識には決して与えられることがない。意識に与えられる確実性というタームで語られることができない他者の心なるものについては、哲学はこれまで、ほとんどの場合には(例えば、他者の他者性をではなく「意識一般」を論ずることによって)このものを論ずることなく通り過ぎてきたと言ってよい。
 
 
 しかし、他者であるあなたの「わたしはある」はまず間違いなく、事実として存在している。認識の主体であるわたしがそのことを意識しようとしまいと、このことの事実性は、決して否定することができないものなのではないだろうか。近代の哲学が、事実性は確実性を介してのみ語られるという原則を暗黙のうちに前提しつづけてきたのだとすれば、他者の問題は、この原則が原理的に言って決して通じないものとなるような領域の存在を指し示している。この意味で、他者の心の存在について哲学的に問うことは、「私たちが、何をもって真理を真理として捉えるのか」という探求を経ることなしには十全な仕方でなされえないもののように思われるのである。私たちは、この探求にはすでに一定の結論を出しておいたので(六月から十月までの当該記事参照)、この結論を前提としつつ、他者の存在の問いについてさらに掘り下げてゆくこととしたい。