今回の探求の主題:
友とは何か?そして、人間はこの世において、友とどのように付き合ってゆくべきか?
およそ、世の中に友人を必要としていない人はいません。しかし、それに比して、友という存在に対する考察の方はといえば、実は驚くほどに数が少ないと言わざるをえないのではないだろうか。
財テクやビジネススキルに関する本であれば、売れ筋の書籍のコーナーにゆけばいくらでも見つかります。しかし、親友とはどのような存在で、心の友はどのようにすれば見つかるのかという点に関しては、おそらくはそのかなりの部分が個人の裁量に任せられているのではないかと思われます。
ここで言いたいのは、友人がいた方が人生に役立つとか、そういうことではないのである。僕みたいに、どうやっても預金残高は増えてかなさそうな人間にも、友は必要なのだ。
ていうか、最終的には友人さえいれば、人生ってなんとかなったりしないのかな。こう言ってる僕自身、別に友人が多いわけではないが、人生のこの辺りの時点で一度しっかりこの主題について考えておいても損はないのではないかと思うのである。考えたから友達ができるかどうかは、わからんのではあるが……。
かのプラトンやアリストテレスを嚆矢として、キケロやアウグスティヌスに至るまで、古代の哲学者たちは現代に比べて、友について考えることが多かったことは確かです。これに対して、近代以降の哲学者たちとなると、どうも孤独な人が多いように思えるのは気のせいだろうか……。
私たちの社会は、いわば万人コミュ障社会とでもいうべき未来に向けて、日々突き進んでいるように見えます。SNSでの地域・年代横断的なコミュニケーションが爆発的に増加している一方で、他者の不在というモメントがこれほどに無視できないものとなっている時代はかつてなかったのではないだろうか。
いや、わかんない。ひょっとしたら単に僕に友だちがいないってだけかもしらんが、でも今の人たちの方が、昔の人たちより互いに仲良くなるのがどんどん難しくなってきてるんではないかという気がしてならないのである。その辺り、哲学史の事情と絡めながら、これから少し掘り下げてみたいもの……。
そういうわけで、古代の友情論の現代版を築けないものかというのが、今回の探求のライトモチーフになりますが、こればかりは、とりあえず作業に取りかかってみるほかなさそうです。脱・コミュ障という目標を念頭に置きつつ、考察を始めてみることにします。