探求者へのコメント:
友だち、別に欲しくないんですけど。
上のようなコメントに対しては、とりあえず今回の探求においては、次のように回答するほかなさそうです。
回答:
今回は、「友は望ましいものである」をとりあえず前提とさせていただきたい……!
友人を欲するというのは、人間の最も切実な望みの一つです。しかし、私たちの時代の特徴とは、下手をすると、この否定しがたいように見える望みをすら消し去ってしまおうとしかねないところにあるのではないか。
テクノロジー、ことに情報メディアの発達によって、わずらわしい人間関係なるものの全てから解放されたいと願っている人の数は、どうやらゼロではなさそうである。友人すらもわずらわしいということになれば、完全で快適な孤独こそが、現代の究極的な理想ということになりかねないのではないだろうか……。
このような問題系に対しては、どこかでしっかりと考えておく必要があることは間違いありません。しかし、こと今回の探求に関しては、繰り返しになりますが「友人は望ましい」は了解済み事項ということでどうかお願いさせていただきたい。
いや、友人とはいいもののはずですよ。ていうか、口でなんて言うかはともかく、心の底では友人を欲しがっていない人間というのは一人もいないのではないかと僕個人としては思うのであるが、どこかに、ガチで友人は一人もいらないと思ってる人とかって、果たして存在するのであろうか……。
この点については、孤独を愛する者は野獣か、そうでなければ神であるというアリストテレスの見解が思い出されますが、筆者も今回の探求では、「友は望ましいものである」という論点はとりあえず自明のものとすることにします。しかし、私たちが生きているこの時代について考える上では、あえてその自明性を哲学的な仕方で掘り下げてみる必要があるということも確かです。
現代の人間は、存在することの善さ、あるいは生きてゆくことの価値、人権の普遍性、倫理の必要性などといったような、「そこは疑い始めちゃうとヤバいし多分マジでしんどいから、自分自身のためにもやめといた方がいいんではないか」という領域を、アグレッシブに攻めまくっています。こうしたことが、成熟した人類が到達しつつある賢さの表れなのか、それとも、放置されて続けてしまった中二病のいかんともしがたい弊害なのかという論点はとりあえず置くにしても、哲学には、これらの領域の正当性についてもう一度根底から問う必要があるということは、いずれにせよ否定しがたいのではないだろうか。
書いていたら、やはり短くともこの点については最初に考えておいた方がいいのではないかという気がしてきました。ならば、この記事自体も始めから書き直すべきなのではないかという気もしますが、すでに最近のいくつかのボツ記事のために心身をすり減らしている筆者は、これ以上書き損じを増やすとストレスで自我が完全に崩壊しそうなので、遺憾ながらこのまま少々の予定変更を行うことにします。