友情に関する一事実:
共有するものを持てば持つほどに、友との友情は深まってゆく。
したがって、もうこれ以上共有するものがないという場合には、共有コンテンツをゼロから作ってゆくという選択肢もありえます。たとえば、一緒に旅行に行ったり、何かを共に勉強したりといったようなことは、人と人との間の関係を深めてゆくきっかけになりえます。
友情と〈同〉との間に存在する結びつきは非常に強固なものなので、もしも誰かと仲良くなりたいと思うならば、何とかして〈同〉を発見したり、作り出したりしてゆかなければなりません。違いを認め合う、ましてや違いを楽しむというのは、まず〈同〉を確保してからの話であって、〈同〉のない差異は、ただ互いの無関心を喚起するほかないからです。
交際開始時のカップルの会話:
「僕と君って、こんなに趣味が違うんだね」「ええ、そうね、ひょっとしたらうまくいかないかもしれないわね、ウフフ」
付き合い始めた二人が笑顔でこのような会話を交わせるのも、ひとえに〈同〉に由来するラブラブな熱気によって精神が一種の躁的痴呆状態に陥っているからであって、そのまま違いを放置しておけば、二人は数年のうちに、互いに対して何の興味も抱かなくなることでしょう。共有するものが完全に消滅し、相手に対して道端の電信柱ほどの関心も払わなくなった時が、二人の関係の終わりになるかと思われます。
「いま挙げたのは友情ではなく、愛情の例なのではないか」という声もあるかもしれませんが、二つのものの間には無視できない相違もなくはないとはいえ、愛情について当てはまることの多くは、友情にも当てはまります。したがって、今回の探求では今後も愛情の例を引く場合もあるかと思いますが、ここに前もってそのことを断っておくこととします。
繰り返しになってしまいますが、違うというのは、友情にとっては非常に危険なことです。重要な事柄についての価値判断が大きく異なっている相手と、どうして今後も頻繁に会ったり話し続けたりしたいと思うでしょうか。友情とはその本質においてかくもシビアなものであり、誰かと親友でいつづけるというのは、それほど簡単なことではないのは言うまでもありません。
しかしながら、意見が合うというのは、合わせようと思って合わせられるような類のものでもないので、こればかりはしばらくの間、実際に関わってみて互いに様子を見てみるというほかありません。「親友になるまでの道は限りなく険しい」を、今日の結論としておくことにします。