イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学は苦しみから

 
 論点:
 人間は生涯のどこかの時点で必ず、「存在のみ」の次元に向き合うことになるのではないだろうか。
 
 
 議論が相当くどくなってきている気もするが、非常に重要なところなので入念に議論を重ねておきたい。しつこくてごめん。しかし、哲学するにあたっては、この「しつこさ」なるものが欠かせないのではないかという気も、しなくもない……。
 
 
 何はともあれ、「存在のみ」である。普通の言葉で言うならば、ただ生きているだけ、何の役にも立たずに、ただ生きながらえているというだけの状態のことである。
 
 
 哲学の内部関係者の方々向けに付け加えておくと、ここでいう「存在のみ」の次元は、たとえばジョルジョ・アガンベンのいう「剥き出しの生」みたいな概念なんかとも、かなりの部分まで重なるものである。ただ、ここであえて「存在」という語を用いることにしたいのは、哲学の問いはある面で、存在の問いに極まると言えるのではないかという見立てがあるからで、僕は「ただ生きているだけ」みたいな極限状況を、哲学の根本問題をなす存在問題と絡めながら考察してみたいというわけなのである。
 
 
 閑話休題。「存在のみ」が提起している問いとは、つまりはこういうことになる。人間は、何の役にも立たないとするならば存在していてはいけないのだろうか。人間は、力能の次元に拠りどころを見出さなければ存在することを許されないのだろうか、それとも……。
 
 
 
 
存在 哲学 力能 ジョルジュ・アガンベン 剥き出しの生
 
 
 
 
 これは非常にニッチな、しかも暗い問いであるように見えて、いや、確かにこの問いってニッチで、しかもそれでいて暗いんだけどさ、死とか病気のこととかを考えると、この問いってこの世に生きるどんな人間にとっても決して無視できないものなんではないかと思わずにはいられないのである。
 
 
 そもそも生きてゆくって、どこかで誰かから、あるいは何ものか(aliquid)から生きてゆくことを許されているんでなければ、どうしようもなく耐えがたいものになってしまうんではなかろうか。
 
 
 僕はここ最近になるまで、って言っても数年前くらいまでのことだけど、生きてゆくのが非常に辛い時期を経験していた。もちろん、僕の苦しみなんかよりも大きな苦しみが数限りなく存在するってことは言うまでもないのであるが、ここで僕が言いたいのは、人間って、生きてゆくのがどうしようもなく苦しくてしかたない時もあるんじゃないかっていうことなのである。
 
 
 いま思い返してみると、僕はそういう時期を体験するまでは、哲学してても「考えるべきこととして、これだけは外せない」っていう信念とかこだわりみたいなものがなかったような気がする。
 
 
 その時期をくぐり抜けてみてはじめて、いや、これだけは絶対に問うておかねばならないのではないかと思えるような問いも少しずつ生まれてきたのである。これ以上のことは次回以降の記事に回すこととしつつ、「本当の意味での哲学は、苦しみから始まるのではないだろうか」という問題提起をしたところで今回の記事は結ぶこととしたい。