イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

教育と倫理の問い

 
 少し話が逸れてしまいますが、この機会に、筆者にとって決定的に重要と思われる一論点を提起しておくことにします。
 
 
 問題提起:
 哲学者にとって教育という問題に向き合うことは、いわば必須課題であると言えるのではないか。
 
 
 いやこれ、ホントそうなんではないかと思うのである。もちろんかくいう僕自身、人間的には、マジでどうしようもないやつではあるわけなんであるが。
 
 
 33歳ってまさしく、帯に短しタスキに長しな年齢なのではなかろうか。僕はまだまだ、哲学的にも人間的にもひよっこちゃんである。でも、これだけは絶対に貫き通さねばってものに、まだ出会ってないってわけでもない。
 
 
 それで、教育である。教育って、究極すれば他人の教育というよりも、自己の自己自身に対する教育というテーマに行きつくんではなかろうか。
 
 
 自分はこう生きねばならんのではないかという道があるとする。確信が深まって、ひょっとしたら間違ってるのかもしれないとはいえ、自分としてはこれを伝えなければみたいなものができた時に、ひとは初めて本当の意味でものを書くことができるのではなかろうか。
 
 
 世の中に、完璧な教師は言うまでもなく、ただの一人も存在しない。だけど、教師が一人もいない世界というものも、まず間違いなく、今よりもずっと荒廃したものであることであろう。教えるとは、どういうことなのであろうか。プラトンがなぜこのテーマにこだわり続けたのか、昔よりも、体感のレベルで納得させられるようになってきたのであるよ……。
 
 
 
 プラトン 教師 倫理 形而上学 哲学
 
 
 
 倫理と人生論しか語らない哲学というものは、それほど面白くなく、中途半端なものがほとんどかもしれません。しかし、哲学の営みから倫理の要素を抜き取ってしまうこともまた、哲学からその生命を奪い去ってしまうことであるように思われます。
 
 
 筆者の場合、倫理的な次元と存在論的な次元とが切り結ぶ地点において考え続けることが、哲学者としての自分の仕事の中核になるのではないかという気がしています(フィクションに関する今回の探求も、こののち形而上学的な方向に縺れ込んでゆく予定である)。すでにくり返し書いてきたように、倫理的に確立した自己を持っているという自負があるわけではないので、倫理について書くということには自分自身でも矛盾を感じざるをえませんが、事柄の成り行き上、そういうことになってしまっているのを変えるのは難しそうです。
 
 
 いやほんと、ネットにしろリアルにしろ、他の人からうしろ指をさされるのが怖くて仕方ないっていうのはある。でも、そういう風に感じるようになったってだけ、少しは成長したということなのであろうか。わかんないけど、ある意味では自分のために書いてる部分も大きいこのブログをひとに読んでもらってるってことには、今さらながら、感謝せずにはいられないのである……。
 
 
 哲学の問いというのは向こうからやって来るものなので、自分自身でも問いを選択することができないのは確かですが、問いを問うかぎり、問いにふさわしい人間になるように問いの方から求められることもまた事実です(お前の魂の姿は、お前自身が問うその問いの姿に似ることだろう)。自分自身の思考に懐疑のまなざしを向けることを忘れないようにしつつ、これからも教育と倫理の問いについて考え続けてゆくこととします。