イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

問答の結論

 
 そろそろこの辺りで問答形式も一区切りということにしたいが、最後に確認しておきたい。われら哲学徒たちが求めているのは、真理そのものだったね。
 
 
 「……そうですね。」
 
 
 ところで、今話してきたようなことからすると、何かあるものを探し求めている時には、そのあるものとは他のものを探し求めている人々ではなくて、まさにそのあるものを探し求めている人々のところに行く方が、そのものが見つかる望みは高いものと思われる。そうではないか。
 
 
 「……そうでしたね。」
 
 
 となると、今の場合、すなわち真理を求めるという場合であっても、まさにそれを求めている人、つまりは真理を求め続けている人々のもとにそれを探しにゆくのが、最も見込み高いということになるのではないか。
 
 
 「……そうなるでしょうね。」
 
 
 さて、その人々はわれわれの間では何と呼ばれているだろう?言うまでもなく、彼らは哲学者と呼ばれていたのではなかったか。
 
 
 「……ですね。」
 
 
 そして、言い古されているといえばもはや二千年というレベルのスケールで言い古されていることではあるが、やはり確認しておきたい。彼らはすでに真理なるものを知っていて、それで何一つ足りないものはないという状態のうちに、いわば神のように安らっているのだろうか?それとも、まだ知ってはいないけれども、知ることを憧れ求めているのだろうか?
 
 
 「……憧れ求めているんでしょうね。」
 
 
 うむ。それでは、われわれの問答の結論は、もしもわれわれが真理を知りたいと思うのならば、哲学者たちが本当にそういうものを知っているかどうかは別にするとしても、まずは彼らのもとに行ってみなければならないということで大丈夫であろうか?
 
 
 「……いいと思います。」
 
 
 
 真理 哲学者 善き師
 
 
 
 問答の結論:
 もしもわれわれが真理を知りたいと思い、真理を憧れ求めるというのであれば、われわれはまず哲学者たちのもとに行かなければならない。
 
 
 かくして、哲学の善き師を求めることが、われわれ哲学徒にとっては喫緊の課題となってくるということになりそうである。独力で求め続けることには、少なくとも一旦独り立ちするまでは無理があろう。蛇の道は蛇、餅は餅屋などと言うように、哲学を求めるならば哲学者を求めなければならない、というと当たり前のことのようだけれども、当たり前にも見えることを深い必然性とともに改めて納得するというのは、決して無駄にはならないはずである(というか、哲学というのは究極的にはこれに尽きるのではないかと、最近は思う)。
 
 
 善き師といっても、歴史上の大哲学者たちであることもあれば、生きている人のうちの誰かであることもあるだろう。しかしいずれの場合にも、ここまで考えてきたことから、ある人が善き師であるかどうかを判定する一つの基準を導くことができるのではないかと思われる。その基準とはすなわち、その人がわれわれの求めているまさにそのものを、つまりは真理を真剣に求めている人かどうかということだ。
 
 
 哲学の道を歩んでいると一言に言っても、真剣に求めているかどうかという点については、人ごとにかなりの差がある。筆者が今まで見てきたところからすると、過去の大哲学者たちにしても、生きている人たちにしても、哲学的に相当な所まで行っているという人たちはみな、まずもって、真理を求める真剣さにおいて比類ないところを持っているように思われるのである。この点については、もう何年も前に「一秒たりとも無駄にすることなく、勉強しなきゃいかんよ」とある先生から言っていただいたことを思い出すが、それはともかくとして、善き師をめぐる今回の探求にも、そろそろ一区切りをつけることができそうである。