イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

本質の真理

 
 前回までとは異なった角度から、問題にアプローチしてみることにする。
 
 
 問題提起:
 真理とは、本質の探求とも関わりを持っているのではないだろうか。
 
 
 本質とは、そのものがまさにそのものであるところのゆえんのもの、「〜とは何か」という問いの答えとなるものを意味する。抽象的な話ではわかりにくいので、先日すでに取り扱った主題に即して考えてみることにしよう。
 
 
 問い:善き師とは何か?
 答え:善き師とは、弟子以上に熱心に真理を憧れ求め、また、その熱心さに由来する努力の結果として、人間にあたう限りの仕方で真理を語ることのできる人のことである。
 
 
 前回の「善き師をめぐる探求」でたどり着いた結論はおおよそ上のようなものであったが、ここでは「善き師とは何か」という問いに対する答えを探る中で、哲学の師なるものの本質が探し求められていたわけである。そして、ここに挙げた答えによって、問いに本当に十全に答えることができているかはとりあえず別にするにしても(ただし、上の答えは「愛知(フィロソフィア)」としての哲学の語源には合致しているため、大方の筋としては悪くないのではないかと思われる)、少なくともわれわれとしては、上のような答えが得られたというわけである。
 
 
 かくして、師なるものの本質には、真理というファクターが入り込んでくることになる。すなわち、師と真理とは切っても切り離せない、あるいは、真理との関わりをもしも失ったとするならば、師は師でなくなるであろうというくらいに、師と真理との関係は根底的なものであることが明らかになってくる。本質の探求とはこのように、「〜とは何か」と問うことによって、問われているまさにそのもののコアを、そのものがそのものたるゆえんを問うことを意味するのである。
 
 
 
真理 善き師 本質 弟子 フィロソフィア ハイデッガー アリストテレス ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 プラトン アリストテレス デカルト コギト
  
 
 
 前回までの「命題の真理」という真理観は、ハイデッガー先生の見立てによるならば「本質的にはアリストテレス以来、すでに下書きされていた動向」に従うものであるとはいえ、それでも本格的な仕方では二十世紀に入ってから大きくクローズアップされてきたものに他ならない。
 
 
 そして、議論の過程でウィトゲンシュタインという固有名が出てきたことにも端的に表れているが、この真理観は、分析哲学と呼ばれる英米系の哲学の潮流にきわめて深いつながりを持っている。というか、分析哲学はもともと、「真理とは、命題の真理のことを言うのではないか」という着想に基づいて生まれてきたわけで、だからこそウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、この潮流にとっては、その後の人々に対して陰に陽に影響を及ぼさずにはいない「運命の一撃」に他ならなかったわけである。
 
 
 これに対して、今回から論じてゆきたい「本質の真理」という真理観の方は、それこそその行為を問えばプラトン先生やアリストテレス先生にまで遡るという、哲学の伝統の中ではオールド・スクールの中のオールド・スクールとも言えるような長い長い歴史を持っている。デカルトに始まる「コギトの哲学」の勃興とともに若干影が薄くなっていたきらいはあるものの、筆者の見るところでは、ハイデッガー先生くらいから再び力強く哲学の中核に返り咲きそうな気配がぷんぷんしているゆえ、次回以降もこの「本質の真理」という真理観を詳しく掘り下げてみることとしたい。