イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ハイデッガーの「偉大さ」とその影

 
 論点:
 美には賛嘆の声をあげることを惜しんではならないとともに、警戒を怠ってもならない。
 
 
 マルティン・ハイデッガーは、哲学のど真ん中を突き抜ける当時最強の哲学書(『存在と時間』)を書き上げたが、その後にはナチスという暗黒面へと堕ちてしまった。後年の彼の著作は、それはまたそれで哲学徒必読の超濃厚傑作も少なくないので、ナチスうんぬんを取り沙汰しすぎるのもひょっとすると公平を失するという見方もあるかもしれないとはいえ、彼自身の文章の表現のうちに、ある種のウルトラマッチョな「力の美」のようなものが垣間見られることもまた、紛れもない事実であろう。
 
 
 ただし、筆者のように哲学の学びのかなりの部分をこの「問題含みの偉人」に負っている身としては(もっともこの点に関しては、戦後のフランス思想から現代に至るまで、彼の影響を全く被っていないという人の方が少数派と思われるが)、その学恩を忘れてただ非難しまくるということも決してできないのである。まことに、ハイデッガーこそは哲学史アナキン・スカイウォーカーであり、一度はかのダース・ヴェイダーばりに暗黒面に突っ込んでいった人が二十世紀の哲学を代表してしまっているというあたりに、哲学史の底知れない両義性を感じずにはいられないのである。「力への意志」を掲げて暗黒面をひたすらに突っ走っっていったニーチェ(現代への批判の鋭さのあまりに、隣人愛までぶった切ってしまった事実を鑑みるならば、やはりこの先人の歩んだ道は暗黒面以外の何物でもなかろう)、かのマスター・カントを輩出した哲学の一大中心地であったドイツは、気づかれぬうちにシスの温床と化していたということなのであろうか(この点、後発国としての遅れを取り戻そうとして強硬な近代化の道をひた走っていった「力の帝国」としてのプロイセン=ドイツの歴史との重なりを思わずにはいられぬ)……。
 
 
 
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 美は確かに真理のしるしなのではあるが、たぶん真理とか美って、紛れもない本物の中に、わずかに激ヤバなまがい物が混ざっているときにこそ一番危険なものになりうるのではなかろうか。ハイデッガー先生の場合、すごすぎるよ真理だよもう哲学はこれしかないようおおぉんと思わず叫びたくなるような「偉大さ」が見間違いようもなく現前している一方で、油断してると「国家社会主義の内的真理と偉大」みたいな表現が飛び出してきて冷水をぶっかけられたような気分にさせられるゆえ、その著作を読むにあたっては細心の注意が必要なことは間違いなさそうである。
 
 
 個人的な意見にはなってしまうが、先生が例の「転回」の後に提出した「最後の神」の概念なんかは、おそらくは二十世紀哲学の中でも最高度に問題含みな概念の一つなのではあるまいか。うおお、何じゃこりゃこの人強キャラすぎるよスケールが違いすぎるううぅと衝撃を受けた若かりし(?)日々のことははるかに遠ざかってしまったが、今でもやっぱり、この人、マジで問いかけのレベルが深いなと驚嘆させられるとともに、しかしやはりこの「最後の神」の路線で神について考えている限りは人間には真の幸福はありえないのではなかろうかと思わずにはいられないのである。前回と今回は、詳細な論述なしにただだらだらと所感を述べるみたいなことになってしまって申し訳ない限りではあるのだが、「真理には必ず美が伴うが、美は必ずしも真ならず」をこの二回の記事の結論として先へ進むこととしたい。