イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

先人たちは偉大であるか

 
 恋と真理という論点については場を改めてしっかりと論じる必要がありそうであるが、哲学徒としてはとりあえず、次の論点が重要であろう。
 
 
 論点:
 「先人たちは真理の偉大な探求者であった」という見方は、哲学徒にとっては欠かせないものなのではないだろうか。
 
 
 すでに論じたように、真理の次元と他者の次元とは明確に区別されるべきものである。したがって、たとえ先人たちであろうとも、間違っていると思われる場合には、彼らとは異なる論を打ち立てることをためらってはならないであろう。
 
 
 しかし、その一方で同時に「先人たちは、未熟なわれわれよりも正しいはずだ」という感覚を身につけておくこともまた、われら哲学徒にとっては絶対に必要なのではないだろうか。
 
 
 たとえば、トマス・アクィナスである。彼が生きた時代からはもう七百年以上も経っているというのに、世界にも日本にもトマス研究者と呼ばれる学者たちがたくさんいて、今日も『神学大全』やら『存在者と本質について』やらを読み続けている。このことは、トマスの著作が単なる歴史上の遺物としてよりも、むしろ生きた対話の相手として、尊敬の念を持って読み続けられていることの証なのではあるまいか。
 
 
 最大限にくだけた言い方をするならば、トマスは、今でもめっちゃすごいと思われ続けているのである。そして、多分その尊敬の念は、十分に根拠のあるものなのだ。天動説は地動説にひっくり返り、進化論も提出され、素粒子物理学分子生物学が発展しようとも、われわれ人類には、今日も変わらずトマスの書物のページをめくって彼の言葉を傾聴するだけの必然性があるのではなかろうか。
 
 
 
 トマス・アクィナス 神学大全 進化論 自然科学 プトレマイオス プラトン ジェダイ
 
 
 
 そう考えてみると、哲学というのは非常に変わった学問ではある。自然科学をやっていると自称する人がもし「わたしは、今日でもプトレマイオスの書いた本を、そこに真理があると思って読み続けている」と熱をこめて語ったとしたら、おそらくは多くの人から、うわあこの人やべえな発狂してんなと思われることは間違いないであろう。
 
 
 しかし、こと哲学においては、そういうこともありうるのではなかろうか。プラトンとかは、今読んでてもマジですごいわけですよ。もちろん、言ってること全部が正しいというわけではないのは確かであるが、プラトンの方がわれわれよりも深く知ってることも沢山あるということもまた、間違いないのではないかと思われるのである。
 
 
 最後に話を戻すと、われら哲学徒にとって、トマスは今日でもマスター・トマス・アクィナスなのである。一人前のジェダイになりたいならば、われわれは、彼をはじめとする先人たちの残した書物を読まねばならぬ。「叡智は先人たちのうちに」を今日の結論としつつ、われわれはさらに先の議論へと歩みを進めることとしたい。