イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「自由な戯れ」と、晩年のドゥルーズ

 
 美とは感覚のための感覚、すなわち、自己目的へと生成した感覚のことを言うのではないだろうか。
 
 
 視覚の場合を例に取ろう。私たちは通常、視覚を視覚それ自身以外の目的へと奉仕させている。たとえば視覚は、情報伝達の媒体となったり、次の行為のための刺激として機能したりしている。街の看板を見て、「マジかよ、この店今日は休みか!ひえええ」となったり、駅の入口で改札機を見ながらほとんど無意識のうちにSuicaを出して、歩きながらタッチしたりとか。
 
 
 しかし、われわれが絵画を眺める時には、そこから何か情報を得たり、それを見てすぐにリアクションを起こしたりするわけではない。むしろ、見るという行為そのものを味わうのであり、まさしく見るために見るのである。このような視覚の対象は、『哲学とは何か』を書いた時期のジル・ドゥルーズによれば、合成=創作平面の上で自己を定立するに至った被知覚態と変様態であり、要するに〈モニュメント〉なのであるが、やはりここは、近代美学の礎を据えたイマヌエル・カントの言葉にも耳を傾けておくのが適当であろう。
 
 
 美に関するカントのテーゼその2:
 美における快は、構想力と悟性の自由な戯れから生じる。
 
 
 ていうか、このテーゼってほんとに決定的すぎて、それ言われたらもう言うことなくなっちゃうねっていうくらいに決定的なものである。先ほどのドゥルーズ先生なんかもカントのこの「自由な戯れ」っていう概念が敷いた路線からそんなに遠くないところで議論を展開しているわけで、カント先生は19世紀の終わりに、近代美学を開始すると同時に現代美術の極限にも通じるような概念を提出してしまったというわけである。「自由な戯れ」って、バスキアとか岡本太郎なんかも大肯定しそうな表現であるな……。
 
 
 
美 Suica ジル・ドゥルーズ モニュメント エマヌエル・カント 悟性 構想力 岡本太郎 バスキア カオス 脳 差異と反復 意味の論理学 哲学とは何か スピノザ エチカ
 
 
 
 ちなみに余談ではあるが、ドゥルーズ先生はさらにこの〈モニュメント〉としての感覚を、なんとカオスを縮約しつつ、感覚として観照する脳というところにまで話をつなげていって、結局最後は脳なんすか先生、科学者とかならともかく、先生くらい哲学に詳しい人がそこに突っ込んでいくのは過激すぎるっすとしか言いようのない結論に至るのである。
 
 
 これだけビッグな哲学者のたどり着いた最終地点が脳であるというのは非常に衝撃的であり、ていうかこの結論からさかのぼって『差異と反復』とか『意味の論理学』とかを眺めてみると、だいぶ思考の風景も変わってくるのではないかと思われる。『哲学とは何か』が書かれてからまだ30年も経っていないので、この老哲学者が繰り出してきた「最後の思考のツイスト」の射程は、私見ではいまだ十全に測られていないのではないかと思うのだが、どうなのであろうか。
 
 
 最近『哲学とは何か』を読み直している関係上、話がドゥルーズ先生の方に完全に飛んでしまった。次回以降は話を再び美と「自由な戯れ」の方に戻すこととしたいが、改めて考えてみると、ドゥルーズ先生が最後に脳に突っ込んでいったのってやっぱり、スピノザの「第三種の認識」を過激にかつ躊躇なく唯物論化してゆこうとする、先生にとっての『エチカ』第5部みたいなものであったと言えるのではなかろうか。ぶつぶつ……。