イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

認識能力の総合競技

 
 論点:
 美を味わうためには、無意識的であるにせよそうでないにせよ、何らかの複雑な知的行程が必要とされる。
 
 
 美における快は、カントによれば、「構想力と悟性の自由な戯れ」から生じる。「構想力と悟性」というのは、分かりやすい言葉に置き換えるならば「イメージ力と言語能力」とでもなるであろうか。
 
 
 たとえばクラシック音楽なんかは、このモチーフがこういう仕方で反復されてるとか、展開されてるとか、聴き手の集中力と知性の働きを要求する度合いが高いので、いわば苦労多く、実りも多いタイプの音楽であるといえる。また、それじゃあポップスを聴くのはラクかというと、確かにクラシックに比べるとおそらくラクラクなのであるが、やっぱりいい曲になればなるほど、リラックスしている中でスタイリッシュに知性を働かせることが要求されてくるのではないかと思う。
 
 
 そして、ここで注目しておきたいのは、美の享受には感覚だけでなく、言語の要素も非常に密接に関わってくるという点である。
 
 
 上のポップスの例を続けるならば、ポップスって、ていうかポップスだけじゃなくて多分ロックとかでも実はそうなんじゃないかと思うのであるが、究極的には言葉の勝負である。いや、作り手の人たちがもちろん音の方にもめちゃくちゃこだわってることは言うまでもないとしても、それも最終的には言葉が言葉として立ち現れてくるのをサポートしているという場合が多いということは確かなのではないかと思う。ヒップホップが人間力とも合わせた言葉の勝負の世界であることについては、詳論するには及ばないであろう(ただし、言葉にこだわっている人たちは例外なく音源にもこだわっているというのも、改めて言うには及ばない事実ではある)。
 
 
 
カント 美 構想力 悟性 クラシック音楽 ポップス ヒップポップ 真・善・美
 
 
 
 美の享受、あるいは作品の享受とはいわば、人間の認識能力の総合競技なのである。感覚だけではなく、言語だけでもない。知性が必要ではあるが、知性は決して凝り固まっていてはならず、柔軟で、闊達自在でなければならない。芸術の鑑賞が、哲学の学びのための必須の履修科目となっているゆえんである。
 
 
 若干話は本題から逸れてしまうけれども、哲学というのは非常にマニアックで、何でも楽しく味わえるという、人間としての幅の広さが求められる一方で、哲学者は、哲学をやっている人しか絶対に興味を持たないようなコアな概念を孤独に掘り下げ続けなければならない。
 
 
 その上、精神力のすべてを費やして身につけた学びの成果がただちに実社会で活かせるわけでもないので、哲学徒は時々自分でも何をやっているのか分からなくなって呆然とすることもしばしばであるが、この営み自体から得られる喜びだけは他の何物にも代えがたいということが、唯一の慰めであろうか。いずれにせよ、真・善・美の観照が人間にもたらしてくれる幸福の豊かさは、他のすべてのことを忘れさせるに十分なほど深いもののようである(ただし、この幸福の探求が隣人への責務までをも忘れる口実となってはならないという論点は、哲学的には非常に重要なのではないかと思われる)。