イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

古代ギリシアの偉大

 
 「自由な戯れ」の方に話を進める前に、もう一つ論点を確認しておくこととしたい。
 
 
 論点:
 自己目的性という性格を通して、美と真理の間にある親縁性がすでに予感されている。
 
 
 美とは何か他の目的のために奉仕するのではなく、自己目的的なものへと生成した感覚によって体現されるのだった(前回の記事参照)。このように美が「感覚のための感覚」という側面を持つ一方で、真理もまた「真理のための真理」という側面を持つことは疑いえない。
 
 
 もちろん真理は、いわば副次的なしかたでとても役に立つ。哲学は人間性の完成に不可欠であるし、自然科学がめちゃくちゃ人間の役に立つことは、小学生でも知っている通りである。筆者も、昔は哲学が役に立つとか言うのに若干躊躇するところがあったものだが、最近ではこの点については疑わなくなってきたのである。本当の意味で人間の生を豊かにすることとして、人間性の完成以外のものがあろうか。
 
 
 しかし、哲学は、ついでに言えば科学も、究極的には真理を、真理それ自身のために求めるものなのである。いわば、酔狂といえばこれ以上ないというくらいに酔狂な、しかし偉大なことこの上もない営みなわけであり、だからこそ哲学を開始し、科学的探求の礎を据えた古代ギリシア人たちは、人類の歴史においてまことに一つの運命に他ならなかったと言わざるをえないのである。
 
 
 
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 ギリシア人は偉大である。いや、実際の歴史を紐解いてみると、当のギリシア人たちも実際には美と真理だけを熱烈に追い求めていたわけではないこともわかるし、筆者もまた、ハイデッガー先生が抱いていたのと同じくらいの熱情をもって、ギリシアという歴史世界を愛しているわけでもない(先生のギリシアへの愛は限りなく深く、晩年は自宅の書斎で毎日、ホメロスや、ピンダロスの詩を繰り返し読み続けていたそうである)。しかしそれでも、哲学という営みが生まれたのは古代ギリシアであったというこの一事をもってしても、哲学徒はこの歴史世界への尊敬の念を抱かざるをえないのではないかとは思う。
 
 
 歴史のストーリーということでいえばぶっちゃけ、ギリシアよりもローマの方が面白いかもしれぬ。これは必ずしも筆者の個人的な好みではないのではないかと思うのだが、たとえば、ただひたすらに常人離れしている感のあるペリクレスよりも、人間臭いところもありながら、ぶっちぎるところは度肝を抜くようなやり方でぶっちぎってゆくカエサルの方が、ヒーローとしては魅力的なのではないかとも思う(と言っても、ペリクレスの圧倒的な「人間じゃない感」も、それはそれで畏怖の念を抱かされるし、カエサルの方も「人間臭い」と書いてしまったが、その言行は、高貴なる古代人の中でも例外的なほどまでに高貴としか言いようがないのではあるが)。
 
 
 しかし、ソクラテスが、そしてプラトンアリストテレスが生まれ、そして哲学=愛知の営みを炸裂させたのは、そして、筆者をはじめとする哲学徒たちが今日も変わらず思索と概念製作に励んでいるのはやはり、美と真理とをこよなく愛した古代ギリシアという歴史的命運があったればこそである。われらも、自分たちがパルメニデスプラトンの志を継ぐものであることを深く心に刻みつつ、先人たちに恥じることのないように、日々の思索の道を歩まねばならぬ……。