イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

内包の存在と、その捉えがたさについて

 
 論点:
 言葉の意味の内包は、その存在を疑うことはできないが、きわめて捉えがたい。
 
 
 前回の例を再び取り上げるなら、「人間である」という語の意味は、命題関数「xは人間である」について、どのような個体がこの命題を真とするかを知っているかどうかという観点からアプローチすることができる。この場合でいうと、ソクラテスカエサルをはじめとする数かぎりない個体がそれに当たるわけで、これが、意味の外延的側面である。
 
 
 このアプローチの利点は、意味というきわめて捉えがたいものを、明示的かつきわめて明確に表現できることである。語の意味をそれだけで独立に捉えるのではなく、命題との関連において捉えることによって(文脈原理)、意味をそれこそ0/1の二進法のような明晰さをもって定式化することができている、かに見える。
 
 
 しかし、このアプローチに対しては、「明示的にではないにせよ、そもそも、意味の内包をわれわれが実は外延とは別のところで理解しているからこそ、外延を挙げることもできるのではないか」という、非常に素朴な横槍を入れることも可能である。
 
 
 すなわち、上の場合でいうと、「xは人間である」のxに何を入れたら真になるのかというのが「人間である」という語の意味だと言われても、いやいや、そもそも「人間である」の意味を知ってるからこそ「xは人間である」に何を入れたら真になるかも知ってるのではないか、意味の内実については、また別に考える必要あるんじゃね、というものである。ある意味で、一切の文脈から離れたところで成り立っている語の内包的意味を知っていてはじめて、文脈にもとづくところの語の意味の外延的定義も可能になるのではないかというのが、ここでの主張の要点である。
 
 
 
 人間 外延 分析哲学 内包 命題関数 真理値 エトムント・フッサール ジル・ドゥルーズ
 
 
 
 この主張はきわめて素朴なものではあるが、言語の意味に関する外延的なアプローチ(すでに述べたように、分析哲学という哲学の潮流はこの方面から言語の問題に迫ろうとする)に対する、根源的かつ決定的な疑義を申し立てるものである。しかし、このように申し立てる側も一つの決定的なアポリアというか弱みには直面せざるをえないのであって、それは「確かに意味の内包、あるいは内包的な意味が存在しているだろうし、むしろ意味現象の本源は外延よりも内包にあるのではないかというのももっともなのではあるが、それでは内包とは何なのかと改めて問われると、正直、言葉に詰まる」というものである。
 
 
 たとえば、あなた、「赤い」って言葉の意味わかってますかと言われたとしたら、いやもちろんわかってますよとほとんどの人が答えることであろうが、じゃあどういう意味なのか、わたしにはっきり説明してくださいとさらに詰め寄られたとすれば、うう、「赤い」ってのはもはや赤い以外には説明できないけど、とにかく赤いってことだよ、うーむ、わかってはいるけどこれ以上詳しく説明できないもんだなこれ、となるであろう。
 
 
 しかしそうなると、それじゃあわかってるって一体あなた何をわかってるんすか、こっちは命題関数とか真理値とか、その他もろもろの概念装置を援用してこれ以上ないくらいに明確に意味を外延として定義してるじゃないですか、内包なんてものがあるとするなら、ここに出して見せてみてくださいよホラと言われてしまう危険が生ずる。そうなると、うわあぁん分析哲学なんてキライだああぁと泣きながらその場から逃げ出すか、あるいは覚悟を決めて、わかりました、それではエトムント・フッサールの『論理学研究』とジル・ドゥルーズの『意味の論理学』を叩き台にして、今日はあなた、行くところまで行きましょうと一大論争を開始するほかない。本質の真理と命題の真理の関係を問うというわれわれの目下の探求の範囲内では、とりあえず意味の内包というものが存在することは確からしいと納得することができればそれで用は足りるので、次回の記事ではもう一つの具体例を検討してみることで、この果てしのない論争に代えることとしたい。