イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

外延と内包

 
 論点:
 本質の真理を問うことは、存在者を、その自明性から解放しようと努めることである。
 
 
 命題の真理の次元にとどまる限りにおいては、人間は、どこかで世界の無意味性という問題に突き当たらざるをえない。ここにおいては、どんな命題に対しても「だから何なのだ? So what?」と、乾いた投げやりな返答を発しうるのみである(この辺りの事情については、6月8日〜12日周辺の記事を参照されたい)。
 
 
 しかし、たとえば「Aはpである」という命題一つをとってみるとしても、ひとは果たしてこの命題の意味を常に十全な仕方で把みとっていると言えるのであろうか。
 
 
 意味の外延的な側面の次元にとどまっている限り、「pである」の意味を理解するとは、「pである」という述語を組み込んだ命題関数「xはpである」が真となるような個体が何であるかを理解することに等しい。たとえば、「人間である」の意味を理解するとは、ソクラテスカエサルといった個体を組み込んだ命題「ソクラテスは人間である」や「カエサル」が真であること、また、その他の命題、ここではポチとパトラッシュを犬とすると、「ポチは人間である」や「パトラッシュは人間である」が偽であると知っているということである。
 
 
 英米系の分析哲学と呼ばれる潮流においては、言語というものは主に、こうした意味の外延的な側面の方からアプローチされてきた。このように考える限りは、命題を作り、その命題の真偽を判定できる限りは、言葉の意味の理解においては何の問題もないとされることになるだろう。
 
 
 
真理 外延と内包 ソクラテス カエサル
 
 
 
 しかし、本当にそれでいいのだろうか。「pである」の意味は、それが当てはまる無数の個体を挙げうることに還元されてしまうのだろうか。むしろその還元は、「pである」の意味を、外延という、明晰に何の問題もなく語りうるものの次元のうちにとどめておこうとする「内包的な意味の拒否」というモメントと一体のものとしてしか考えることができないのではないだろうか。
 
 
 古代と中世の哲学者たちは、本質の問い(「〜とは何か?」)を問い続けた。これはまずもって、「Aは何であるか?」に対して「Aはpである」を導くことになるが、その流れの中で自然と「pであるとは何か?」というさらなる問いをも導くことになる。
 
 
 「人間である」とは、どのようなことか。それは、人間であるような無数の個体を挙げうるというだけで理解されていいのか。むしろ、個々の人間を人間たらしめている、人間の「何であるか」を問うこと、すなわち、人間の人間性を問うことが、ここでは必要とされているのではないだろうか。
 
 
 このように問うとき、ひとはすでに意味の内包的側面という問題圏に、足を踏み入れている。分析哲学の功績は、意味の外延的側面あるいは形式的次元を踏査した点にあるといえるが、言語の意味の問題は、外延的アプローチにとどまる限りは解明がきわめて不十分なままにとどまらざるをえないのではないか。われわれとしてはこのような観点から、今回の探求の主題に必要な範囲内で、もう少しだけ言語の意味についての考察を続けることとしたい。