イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

俗語の変遷から意味の内包を考える

 
 意味の内包について考えるために、俗語表現から一つの例をとってみることにしたい。「ヤバい」という語は近年、比較的新しい意味が加えられることによって、以下の二つの意味を持つようになっている。
 
 
 ①非常に危険である。
 ②死ぬほど素晴らしい。
 
 
 ①については「えー世界史のテストとか、マジでヤバいんだけどぅー」とか、「世間では黒いカネがどうとか騒いでいるせいで、うちの若い連中もそろそろやばいんじゃないかと言ってるようだが、田中くん、君も政治家なら、この位のことでびくびくしてちゃいかんよ……」等々、老若を問わず、日常生活でよく使われている。
 
 
 それに対して②も「ヤバいよ10月から『マンダロリアン』シーズン2が始まっちゃうよヒャッホオオォウ!」「いやあーあなたも『ハン・ソロ』好きですか色々言われてますけどあれ最高っすよねヤバいっすよねいやあいい友達になれそうだなあ!」など、こちらもよく使われているのだが、こちらの用法については、比較的若い世代にしか使われていない。世代間でコミュニケーションをする時には思わぬ誤解が生じることもあるので、使用するにあたっては若干の注意が必要である。
 
 
 さて、目下の探求の主題からして重要なのは、意味についての外延的アプローチだけでは、①から②への意味の移行がどうにも説明できそうにないという点である。
 
 
 ①の意味を満たす外延(「世界史のテスト」「今回の資金問題」etc)と②の外延(『マンダロリアン』シーズン2、『ハン・ソロ』etc)とは、言うまでもなく全然違っている。それにも関わらずわれわれはその両方の外延に対して「ヤバい」という同じ語を用いているし、そのことに矛盾も感じていない。外延という観点から言語の意味にアプローチするだけでは、どうしても解明が不十分なものに止まらざるをえないゆえんである。
 
 
 
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 苦肉の策として、①と②とではもはや意味の外延を異にする二つの違った語なのであって、ただ「ヤバい」という同じ音が用いられているだけなのだとすることもできなくはなさそうであるが、これだと、もともとの①の意味からどうして②の意味が歴史上の特定の時点において派生してきたのかを説明することができない。やはり、語の意味の外延から離れたところで内包的な意味(「ヤバい」という語によってわれわれが理解しているところの、いわく捉えがたい何ものか)を考えることが、どうしても必要なのである。
 
 
 真理値、すなわち、命題が持つ真と偽とかいった性質に改めて注目を向けたことは、分析哲学の大きな功績であった。メジャーなところで言えば、ラッセルによる記述の理論やクリプキによる固有名の議論が、命題という観点から見たときの言語のあり方について解明するところ大であったことは、何人も否定しないであろう。
 
 
 しかし、命題と真理値という観点からするとまことに切れ味の鋭い分析哲学的アプローチも、意味の問題に対しては非常に相性が悪いことは確かである。これはおそらく、分析哲学そのものに非があるというよりも、意味の問題が、その本性からして外延的アプローチとは別の探求方法をも必要としているということなのであろう。論点をさらに掘り下げるために、われわれとしては、もう少しだけ今回取り上げた例に即して検討を続けてみることとしたい。