イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

本質の真理に関する探求の総括

 
 本質の真理をめぐる探求の結論:
本質の真理を問うこととは、まなざしている事柄の「何であるか」をたえずより根源的にまなざしつつ、見てとられたものを、それにふさわしい言葉にもたらすことに他ならない。
 
 
 命題の真理の次元にとどまっている限りは、たとえひとがあれこれの命題の意味を理解しているとしても、その理解は表面的なものに止まらざるをえない。語られている事柄の意味を根源的に問うこと、意味の深みにおいてまなざし、語ることこそ、本質の真理を問うことにほかならないのである。
 
 
 意味の外延や真理値といった要素とともに語られる命題の真理の次元は、たとえ明示的にそれと知られているわけではないとしても、本質の真理の次元によって基礎づけられている。意味によって、命題が命題であることがはじめて可能になる。本質の真理を問うこととはいわば、命題をこのまどろみから解き放ち、命題の意味をはじめて十全なしかたで明るみにもたらすところの想起の行為であると言えるかもしれない。
 
 
 プラトンアリストテレスは事柄の「何であるか」を問うことによって、哲学における真理の探求に根源的な変容をもたらした。この「何であるか」をプラトンイデアとして、アリストテレスは実体(ウーシア)として思惟したが、より重要なのはおそらく、「〜とは何か」を問うその問い方を、哲学の方法そのものとして打ち立てたことである。筆者が示そうと試みたのは、彼らによって始められたこの方法が、今日でもなお哲学に固有の問いの問い方としてなお有効であるということに他ならない。
 
 
 
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 「真理とは、事柄の何であるかということそのものである。」これで話が終わりということであれば、「真理とは何か」という問いを問うてきたわれわれの探求もここで一区切りということになるであろうが、真理にはもう一つ、おそらくはさらにより根源的な次元が関わっている。次回以降の記事では、その次元を問うてみなければならない。
 
 
 「現象学的還元」や「本質直観」といった術語こそ用いなかったけれども、本質の真理に関する今回の探求の、特に後半部分の内容は、現象学と呼ばれる現代の哲学の潮流と深い関わりを持っている。従って、ここ数回の記事も、現象学分析哲学の事柄の上での関わりに対する筆者なりの見解に基づいて書いているのだが、本質の真理の内実を問うということに叙述の主眼が置かれているために、その関わりは未だ示唆されるにとどまっている。この課題については、前世紀の哲学の歴史を総括するという意味でも、別の機会に試みるべきかもしれない。
 
 
 いずれにせよ、目下のところわれわれとしては、「真理とは何か」という問いをさらに根源的に掘り下げてみることにしたい。最近はただひたすらに淡々と哲学をしており、純粋哲学が取り扱う事象そのものに関心を抱く希少な人々以外にはもはや何の関心も喚起しない地味な記事が続いていることは否定すべくもないが、哲学的には興味深くなくもない事柄に向かって日々邁進しているつもりなので、興味のお持ちの方は時折覗いていただければ幸いなのである。