イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

行為遂行的発言の例

 
 もう一つ、具体例を取り上げてみることにしよう。
 
 
 苦しんでいる人に対して言われる言葉:
 「あなたは今は苦しんでいるけれども、耐え忍ぶならば、あなたの人生はきっと良くなるのではないかと私は思う。」
 
 
 表現はこれとは違ったとしても、苦しんでいる人と話している時に人が言うことになる言葉は、多かれ少なかれ上のようなものになってくるのではないかと思われる。
 
 
 このような言葉をかけるに際しては、最大限の注意を払わなければならないことは言うまでもない。この類の言葉は、無責任なものであってはいけない。このように言う人はまずもって、相手の人生が本当に良いものになってゆく可能性を信じているのでなければならないだろう。
 
 
 他者の人生や心の病の行く先について、誰が責任を持って確言することができるだろうか。わたしを超絶する他者の痛みや苦しみは、認識の主体であるわたしには十全な仕方では想像不可能である。他者の苦しみという問題に向き合う人は、自分が向き合おうとしているものが、原理的に言って自分では体験することのできないものであるという事実を忘れてはならないだろう。
 
 
 しかし、その一方で、ひとたび壁に突き当たってしまった人生や心の病というものは、苦しんでいるその人自身が次第に良くなってゆく可能性を自分で信じるようになってゆくのでなければ実際に良くなってゆくこともないということもまた、否定しがたいように思われる。
 
 
 人間には、ただ自分自身の苦しみを聞いてもらうだけで十分な時もあれば、「あなたの人生はきっと良くなる」という言葉を必要とする時もある。この言葉には、それを言う人自身が自分の言っていることを信じており、かつ、それを聞いた人もまたその言葉を信じることができる時(このような言葉については、聞いたその時には信じることができなくとも、後から少しずつ信じることができるようになるということもある)には、何らかの力を持つ可能性があると言えるのかもしれない。
 
 
 
 J・L・オースティン 事実陳述的 行為遂行
 
 
 
 「わたしは明日の二時にここに来ます」のような発言は、世界について何ごとかの事実を述べているだけではなく、その言葉自身が「約束をする」という行為になってもいる。J・L・オースティンは事実陳述的(コンスタティヴ)な発言に対して、このような発言を行為遂行的(パフォーマティヴ)と呼んでいた。私たち人間は言葉によって報告し、伝達し、叙述するだけではなくて、誓約し、命令し、嘆願しもするというわけである。
 
 
 しかし、少し検討してみるとこの区別は、すべての言葉をこの二分法のどちらかに類別できるというようなものではないことがわかってくる。
 
 
 「わたしは明日の二時にここに来ます」は、約束するという行為を行うのと同時に、明日のその人の行為について何ごとかを陳述してもいる。「あなたの人生はきっと良くなる」という言葉について言うならば、それは未来の事実について語るのと同時に、そうした未来を、いま苦しんでいるその人にとっては信じることが容易ではないかもしれないその未来を信じるように、他者に働きかける言葉でもある。このような言語行為が力を持つことができるのはただ、言う人と聞く人との間に十分な信頼関係があり、かつ、それを言う人が提示する未来が何らかの確固としたものを持っている場合だけであろう。
 
 
 人生を動かすことになる言葉は、必ず何らかの意味において行為遂行的な側面を持っていると言えるのではないか。そして、私たちの人生を動かすそうした「言葉による行為」、行為としての言葉を実効的なものにするのはまさしく、自己を超絶する他者によって語られた言葉を信じるという契機なのである。以上、三回にわたって具体例を取り扱ってみたが、人間の言語活動において「信じること」が果たしている役割が決して小さなものでないことは、以上の分析からも明らかになったものとして先に進むこととしたい。