イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

信と決断、超絶へと向かう実存

 
 省察するわたしの決断:
 わたしは他者への信を、妥当するものとして信ずる。すなわち、わたしは、「他者が存在する」という事実を、あるいは事実と思われるものを、まさしく事実であると受け止めることを決意する。
 
 
 この決断に関してまず注意しておかなければならないのは、決断には、あるものを存在させたりさせなかったりするような力はいささかもないという点である。
 
 
 他者であるあなたの心は、もしそれが存在するのであれば、わたしがその存在を信じようと信じまいと存在することであろう。あなたは、認識の主体であるわたしを超えたところで見、聞き、感じ、考えている。わたしがあなたの存在を信じたり、信じることを決断するよりも先に、あなたは「ある」。
 
 
 従って、信じるとはこの場合、すでにわたしを超絶して存在しているその存在に向かって、わたしがその存在を受け入れつつ関わってゆくことを意味するにすぎない。この意味においては、決断とは、関わってゆくことの決断に他ならない。認識の主体であるわたしは、孤絶していたはずのわたしが外へと向かってゆくこととして、あなたへと関わってゆくことを決断するのである(脱-存することへの決意としての、実存の決意性)。
 
 
 省察するわたしはかくして、思考するわたしなる存在の「外部」を初めて見出す。それは、思考するわたしが決して見ることも、触れることすらもできないような根底的な〈外〉であり、超絶としての超絶である。懐疑する省察の主体であるわたしが行う決断とは、このような外部が存在することを信じつつ、その〈外〉と関わって生きてゆくことを、他者であるあなたと関わって実存してゆくことを決断することに他ならないのである。
 
 
 
他者 省察 主体 外部 実存
 
 
 
 ここでは、人間が一人の「実存する人間」として生き始める上で、欠かすことのできない契機が問題になっていると言えるのではないか。
 
 
 他者の存在は一面において、唯一的な主体であるわたしに対して制限を課し、拘束するものですらある。他者であるあなたは「もう一人の誰か」として、あなた自身の「わたしはある」を無言のうちに発し続けてやまない。あなたが存在するというこの事実によって、わたしは、わたし自身が殺人者なのではないかという嫌疑を、あなたの存在を看過しているのではないかという疑いを自分自身にかけ続けることを余儀なくされる。
 
 
 しかし、わたしはわたしを超絶するあなたに出会うことによって初めて、「一人の人間としての生」のような何かを生きる可能性を与えられるとも言えるのではないか。孤絶としての生、思考し、独白する意識の「他者なき生」は、自分が人間であるのかどうかすらも確かではないような「人間以前の生」である。思惟の中で他者であるあなたに出会うことこそが、わたしがわたし自身という地獄の外に出るためには、欠かすことのできない出来事であるとすれば……。
 
 
 いずれにせよ、省察するわたしは絶対に疑うことのできない必然性に基づいて、他者であるあなたが存在すると信じることを決断した。従って、この決断の後には、わたしはもはや「あなたは本当に存在するのか」と疑うことはないだろう。あなたは、存在するであろう。この最後の部分は非常に重要な論点であるため、倦むことなく、さらに突き詰めて考えてみなければならない。