論点:
聞くという行為は、自己を超絶する他者の言葉を信じることによって可能になる。
たとえば、他者であるあなたが、認識の主体であるわたしの知らない苦しみであるAについて、こう言ったとする。
他者の言葉:
「わたしは今、Aという苦しみを感じている。」
Aという苦しみ(ここには、数ある人間苦のうちの任意のものを代入されたい)を、わたしはこれまでの人生で感じたことはない。このような場合であっても、わたしにはわたしの想像の範囲内で相手に反応することが可能ではある。たとえば、「それは大変だね」「Aなんだったら、Bしてみたら」「Aという状況に陥るなんて、自己責任だ」等々である。
このような反応も一応、他者の言葉に対する表面的な理解を示してはいる。しかし、これで他者の言葉を聞くという行為が成立していることになるのだろうか。むしろ、聞くとはたとえば次のような言葉によって、自分の知らない痛みであるAについて、さらに知ろうとすることなのではないか。
他者への言葉:
あなたの感じているAとは、どのような苦しみなのですか?
私たちは自分の知らないAについて、知る前から判定を下し、裁き、非難さえする。あるいは、Aに興味を持つことなく、まるでAを感じている他者が存在しないかのように振る舞いもする。わたしに必要なのはおそらく、わたしがこれまでに感じたことのないAについて、あるいは、わたしがこれからも感じることは決してないかもしれないAについて、他者に尋ねつつ、知ろうと努めることなのではないか。
わたしが不可知であるあなたのAというクオリアについて、あなたを呼び求め、あなたに尋ねるとき、わたしはまずもって、聞く前に信じている。聞くという行為それ自体が、信じることを前提とするのでなければ成り立たないのである。
わたしはまず、Aという痛みが存在することを信じている。わたし自身はAを経験したことはなくとも、わたしを超絶する他者であるあなたが、わたしには未知であるAを感じ、痛んでいることを信じている。
しかし、わたしは同時にそれ以上のことを、Aの存在を信じることを超えて、Aについて語るあなたのことを信じている。わたしは、独白する意識の特権性を手放している。真理とは、わたしによって知られるものであるという前提を手放しつつ、真理が、わたしを超絶する他者によってのみ知られているという可能性を認めている。あなたの知がわたしを超え、わたしは原理上決してその知に到達することができないからこそ、わたしはあなたに問い尋ね、あなたの言葉を聞くことを求めるのである。
聞く行為の根底に信じるという契機を見出そうとするこの実存論的分析の道行きは、11世紀の中世ヨーロッパを生きた哲学者であるアンセルムスの「知解を求める信仰 fides quaerens intellectum」という探求理念を実存論的に反復しようと企てるものである。この分析が示そうと試みるのは、信じることの領域とは人間の人間性の特殊な一領域を指すのではなく、むしろ人間が人間たろうとする限り、人間は必然的に信じることに基づいて行為せざるをえないという実存論的事実にほかならない。私たちの分析は、この事実のさらなる掘り下げを目指して進んでゆくことになるだろう。