イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

他者が真理を語るという可能性について

 
 論点:
 他者の言葉を信じるとは、言葉それ自体を超えて、語っている他者その人を信じることである。
 
 
 頽落、すなわちさしあたり大抵の状態にある人間にとっては、真理を認識し、語ることができる特権的な主体とは自己自身にほかならない。人間はただ語り、自分の目から見えている世界について語り続ける。延々と続けられる独白こそが、頽落を特徴づける実存のあり方にほかならないのである。
 
 
 これに対して、他者の言葉から何ごとかを聞き取ろうとして真剣に耳を傾ける際の人間は、独白する意識の特権性を手放している。そして、その特権性を手放すのと共に、認識の主体であるわたしは、他者であるあなたが真理を語るという可能性を認めるのである。
 
 
 わたしが知らないことをあなたが知っているということ、あるいは、わたしが決して知りえないことを、わたしを超絶する他者であるあなただけが知っているということ。経験は、人間が無知であればあるほど、このような可能性を認める見込みもそれだけ少ないことを教えている。この点に関しては、愚者は信じるという行為それ自体を軽蔑することによって、自分自身の無知と傲慢とをかえって証ししていると言えるのかもしれない。
 
 
 
頽落 実存 主体
 
 
 
 学問を学びはじめたばかりの頃は、教師が折に触れて口にする一言一言が、特別な意味合いを持って学ぶ人に迫ってくるものである。また、恋をする人間にとっては、恋の相手から発される言葉のすべてが、何か未知の世界を告げるもののように経験されずにはいない。こうした人々は主体にとってもう一人の主体、「知っていると想定された主体」に他ならない。
 
 
 注意すべきは、認識の主体であるわたしが他者であるあなたの言っていることを信じるとき、わたしは言葉それ自体だけを切り離して信じるわけではない、という点である。わたしは、あなたの言葉のうちに正しさを認めるから、あなたを信じるというのではもはやない。むしろ、わたしがあなたの言葉というよりもまずあなた自身を信じ、あなたが真理を語るという可能性を認めるからこそ、あなたの言葉を正しいものとして聞こうとするのである。
 
 
 ここでは真理の真理性は、語られ、聞かれたものという経験可能なものの圏域にではなく、決して十分に聞かれ、知られることのありえないあなた自身のうちに、経験不可能なものの圏域に見定められている。信じるとは、わたしを超絶する他者の、その超絶のうちにこそ知を認める実存的な態度にほかならない。真理の問題に関する哲学的考察は、超絶なるものへと向かう人間の本来性についての実存論的分析を必要不可欠のものとしているように思われるのである。