イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

実存論的構造としての、他者への信について

 
 論点:
 他者が真理を語る可能性を信じることは人間にとって、生きてゆく上で不可欠な実存論的構造をなしているのではないか。
 
 
 この構造ははっきりとは意識されていなくとも、実存論的なアプリオリを構成するもの、すなわち、実存するあらゆる人間の生の可能性を条件づけているものと思われる。以下に、その主な類型を挙げてみることにしよう。
 
 
 ①多くの人にとっては、公共世界は全体としては信頼に足るものである。すなわち、近代以降の社会は「公共世界においては人間が生きてゆく上で必要なことが十分に語られ、議論される」という前提に基づいて成り立っており、この前提に則って、実際にいたるところで公人あるいは公衆たちによる議論が行われている。このことを哲学的な言い方で表現するならば、「不特定多数の公衆によって全体としては真理が語られるものと信じることが、現代人が『普通に』生きてゆくための条件をなしている」と言えるであろう。
 
 
 ②しかし、一部の人々は、哲学者や芸術家、あるいは何らかのオピニオンリーダーや実業界の「カリスマ」など、ある種の特別な人物だけが真理を語ると信じている。あるいは、全体としての公共世界にもある程度の信を置きつつも、そのような少数の人物の言葉に特に耳を傾けている。そのような人物は一般通念とは一致しないことを語ることも珍しくはないから、その際には、通念とその人のどちらを信じるのかの選択を迫られるようなことも往々にしてあるだろう。
 
 
 
他者 真理 公共世界 カリスマ オピニオンリーダー
 
 
 
 ③最後に、病んでいる人がもはやいかなる人間が真理を語る可能性をも信じられなくなってしまった時には、事態は非常に深刻なものとなる。その人はもはや、公共世界におけるいかなる議論にも全くリアリティを感じられないけれども、何らかの特別な人の言葉に心を力づけてもらうこともできない。人間たちの言葉は、その人にとってはもはや空疎で意味を持たないものとなり果てている。そのままの状態が続くならば、その人と死とを隔てている距離は、限りなくゼロへと近づいてゆくことだろう。
 
 
 以上①から③まで、他者への信のさまざまなあり方を挙げてみた。この類型は網羅的なものではなく、①から③の間にはさまざまな中間的段階や変種も存在するものと思われるけれども、どんな人間であっても、他者が真理を語るという可能性を何らかの仕方で信じており、かつ、その信がおのおのの人間の実存を形づくる根本の条件をなしている事情については、きわめて大まかながら、その輪郭だけは示すことができたのではないかと思う。
 
 
 信じるというのはほとんどの場合には無意識のうちに行われていることであって、その人がまるで空気のように当たり前に受け入れているものこそ、その人が最も強固に信じているものに他ならないのである。だからこそ、「自分は理にかなわないものは何も信じたりしない合理的な人間である」と信じて己を疑うことをしない人間こそは、人間のうちで最も愚かで、最も自分自身に対して無知な人間であるということになるだろう。「どんな人間であっても他者が真理を語る可能性を信じている」というと、それは幾分かは奇異に響くかもしれないけれども、それはむしろ、人間のもっともありふれた日常を構成している根本の条件、あまりに自明であるがゆえに、それを自覚することさえもほとんどないような条件のことを改めて言い表したものであるにすぎないのだと言うこともできるのかもしれない。