イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

デカルト的省察の終わりに

 
 当初の問い:
 何の前提を置くこともなしに、絶対に疑うことのできない真理なるものが何か存在するか?
 
 
 この省察を始めるにあたって、私たちは上の問いを立てた。この問いに対してはいまや、次のように答えることができそうである。
 
 
 答え:
 省察するわたしがあくまでも疑い続けようとする限りは、「コギト・エルゴ・スム(思考するわたしは存在する)」以外には絶対に確実な真理は存在しない。しかし、わたしには、疑うことをやめて信じることへと向かわなければならない、絶対に疑うことのできない根拠が存在するのであって、この根拠を通してわたしは、わたしのこの生の真実性を信じることへと決断するのである。わたしは、他の誰でもない「この人間」としてのこの生の真実性を、いわば最大限の蓋然性を持って信頼することができるであろう。
 
 
 この「絶対に疑うことのできない根拠」こそ、他者の存在を非存在とみなすことの倫理的不可能性という論点であった。この論点を通してこそ、省察において懐疑しつづけていたわたしは、「わたしは、他の誰でもない『この人間』である」という事実の重みを取り戻すのである。
 
 
 しかし、ここで取り戻された実存なるものは、いかなる特質を持つのだろうか。もしも、認識の主体であるわたし自身の実存が、他者であるあなたの存在を通してはじめて実存として実存化するものであるとすれば、その時には、実存とは根源的に「超絶へと向かう実存」であらざるをえないということになるのではないか。
 
 
 そもそも、意識には決して直接に与えられることがありえず、信じることを通してのみ関わることのできる他者の存在とは、いかなる意味において「存在」なのだろうか。わたしの意識を超えるところに存在する他者の心について語るとき、わたしは、「ある」という言葉の指し示す意味を根底から考え直すように求められているのではないか……。
 
 
 
コギト・エルゴ・スム 存在の超絶 ハイデッガー 実存 ある 省察
 
 
 
 かくして私たちは、私たちが「存在の超絶」と呼び続けてきた理念について、根本のところから考え直す必然性に直面しているということになりそうである。この課題は「そもそも、存在するとは何を意味するのか」という、存在の意味への問い(この問いは現代において、ハイデッガーによって改めて哲学の根本の問いとして提起されたものである)を問い直すことによってしか遂行されえないであろう。今回の省察はここで一区切りにすることとしつつ、この課題には、この後の探求をもって取り組むこととしたい。
 
 
 三月の初めからここまで行ってきた省察においては、何の前提も置かないところから、「わたしは、他の誰でもない『この人間』として実存する」という命題を受け入れることの必然性を論じることに努めてきた。これほど当たり前のことにたどり着くためになぜこれほどまでに時間がかかってしまったのか、改めて考えてみると苦笑を禁じえないが、絶対的な疑いえなさをもって「わたしは実存する」を思惟において掴み取ることができたことは、哲学の成果としては決して小さなものではないのではないかと思う。
 
 
 果てしなく疑い続けた後に、確固たる地盤とともに新しく生を始めることができるとすれば、懐疑する省察にもやはりそれだけの意味があったということになるだろう。筆者にとっては、この省察は自分自身の哲学の根本的な立場を改めてしっかりと据える重要な機会であったけれども、付き合ってくださった奇特な方々には、いつものことながらただ感謝というほかないのである。より一層の気概をもって哲学に励まなければならないと自分に言い聞かせつつ、次々回からは、また別の探求に取り組むこととしたい。次回はこの省察について、もう一点だけ補足を加えておく予定である。