イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

監獄化したオイコス

 
 論点:
 公的領域と私的領域との間の関係は、今日、無視することのできない危機の時局を迎えつつあるのではないか。
 
 
 人間が単に存在するのではなく「実存」する存在である以上、人間の人間性を公共性の次元に還元してしまうことはできない。公共性の次元は意識されていようといまいと、有用性の論理の容赦なさによって常に駆り立てられ続けている。人間は、そこでは自らの何らかの価値を絶えず表明し続けるよう、見えざる圧迫を受け続けざるをえないのである。
 
 
 これは非常に重要な論点なのではないかと思うのであるが、情報技術、ことにSNSの出現と共に、かつては私的領域から隔てられていた公的領域が無際限に拡大したことによって、人間の精神生活は、便益と同時に多大な損害を被りつつある。
 
 
 かつての公的領域とは、私的領域から物理的にも精神的にも一歩を踏み出していったところに存在している、人間の活動領域の、重要ではあるが特殊な一区画に過ぎなかった。しかし、今日では公的/私的の区別が不分明で曖昧なものとなり、人間の生活において何がパブリックで何がプライベートであるのかが次第に判別がつかなくなりつつあるというのは、誰もが日々体験しているところである。ポリスとオイコスとが截然と分けられていた古典時代は過ぎ去り、今日の私たちが生きているのは、普遍化された監視と駆り立てからなる「監獄化したオイコス」にほかならない。
 
 
 
ポリス オイコス 監獄化したオイコス 監視の目 囚人 実存
 
 
 
 ごく普通のマンションに住んでいる若者の取る動画が、桁の外れた額の金銭を生み出す。あるいは、かつてであれば人に知られぬ日々であったはずの日常生活の細部を発信する女性が、自宅にいながらにして不特定多数の人々の注目を浴びつつ、急速な勢いで社会的承認を獲得してゆく。
 
 
 情報技術をめぐるこうした状況に対して自由と解放しか見て取らないとすれば、言うまでもなく、人文学の徒としては大いなる素朴を示すものであると言わねばなるまい。反対に、私たちは今日、おそらくは他のどんな時代の人間にもまして、公的な領域からの不可視の圧迫と監視の目にさらされている。「監視の目」というのは現実の人間によるそれだけではなく、むしろ内面化された公衆的自己による監視と自己評価のそれでもある。心の病の存在が現代を生きる多くの人間にとって差し迫ったものとなっているのは、おそらくはこのことと無関係ではないだろう。
 
 
 自分自身が見えざる監獄に収容され、監視され続けていることに気づくことのない囚人、それにも関わらず、絶えずどこかから見られ、糾弾されているような感覚によって不安と倦怠の状態に陥っている囚人を思い描いてみるならば、それが現代の人間をこの上なく的確に表現するイメージであると言えるのではないか。私たちは、もはや誰にも止められないような仕方で私たち自身を監視し、圧迫し続けている。実存する人間の人間性を探り当てようとする実存論的分析は、実存の本来性からの避けることのできない変様態として、今や万人にとって見えざる脅威となりつつある、公的なものの限りない拡大というこの「異常な日常」の内実を明らかにしなければならないだろう。