イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

公共性から実存へ

 
 論点:
 公共の言論空間の中では、人間が本当の意味で語るということも聞くということも、ほとんど起こりえないことなのではないだろうか。
 
 
 すでにくり返し論じてきたように、公共世界における言葉のやり取りは有用性の論理を暗黙の前提にしているために、人間が「本音で」語ることは極めて難しいか、ほとんど不可能になっていると言わざるをえない。
 
 
 もっともこのことは、ある程度までは理にかなっていることでもあって、こと公共の事柄に関する限りは、物事をクールかつドライに決めてゆかなければならない面もあることは確かである。「人間にとって何が善であり、何が悪であるのかを決定する」のではなく、「何が善であり、何が悪であるのかは分からないけれども、とりあえず他者に害を与えたり、困窮のうちにある他者に対して何もしないのは万人にとって望ましくないゆえに、実践面においては博愛の原則に従って物事を決めてゆく」といった役割におのれを限定するかぎりは、コミュニケーション・コンセンサス至上主義社会のあり方にはきわめて大きな価値があると言わなければならない(cf.リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』。ただし、このようにクールかつアイロニカルな姿勢のままで本当にリベラルな社会を実現できるのかどうかは、また別の問題であると思われる)。
 
 
 しかし、人間にとって重要なことは、それが重要なことであればあるほど、公共の言論空間においては語りにくいものになってゆかざるをえないのではないか。そうしたことは、有用性の圧迫からも多数者の見えざる監視をも逃れたところで、ある種の打ち明け話として語られざるをえないのではないか。
 
 
 
コミュニケーション・コンセンサス リチャード・ローティー 偶然性 アイロニー 連帯 公共性 哲学
 
 
 
 「死にたい」「わたしは、なぜ存在しているのだろう」「社会で価値があるとされていることに、意味などあるのだろうか」。人間が時にこうしたことを考えざるをえないのは、人間が公共性の次元には決して還元されることのない、実存の次元を持つ存在であるからにほかならない。
 
 
 実存するということ、自分自身の存在に関わりながら存在するというそのことは、本来は社交における空疎な承認の戯れの賭け金や、経済活動における商品価値になってはならないもののはずであるが、不幸にもそうならざるをえないというのが、人間の世界が抱え持っている必然のようである。情報技術と有用性の論理が手に手をとって未曾有の駆り立てを進めつつある現代においては、人間が実存するということの意味は、以前にもまして打ち棄てられつつあると言わざるをえない。
 
 
 もしも哲学が、「あなたも有能な人間の一人になれる」と公衆に約束することで公共世界における承認を勝ちえてゆこうとするならば、それはもはや哲学というよりも下賤な商売人の売り口上である。反対に、哲学の務めは、概念と知略の限りを尽くして実存の苦しみを真正に苦しむことの価値を擁護しつつ、哲学のあらゆるマーケット化に対しては断固として「中指を立てる」ことにある。そのためには何よりもまず、哲学者自身が、妥協することなく哲学者たらんとする彼自身の実存を生き抜くのでなければならないだろう。