イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「危機のただ中で、生を掴みとる」:アガンベンからハイデッガーへ

 
 ハイデッガーアガンベンの議論の交錯という点に、話を進めよう。
 
 
 ジョルジョ・アガンベンの思考を、あくまでも今回の論点に関わる限りではあるが、たどり直してみる。日常性、あるいは通常状態においては、政治体の真理は十全な仕方で明かされることがない。憲法や法律といった法規範が宙吊りになって停止される例外状態、あるいは「緊急事態」(いわゆる「ロックダウン」は、この状態の典型的な事例とも言うべきものである)を思考することによってはじめて、何が一つの政治体を政治体たらしめているのかが見えてくるようになる。
 
 
 政治体は単に、一人一人の人間に諸権利を与え、合法的な権利の主体として認めるだけではない。そのような主体は、本当はまずその人間の生を「剥き出しの生」として政治体のうちに包摂することによってはじめて、主体として認められている。いわゆる緊急事態なるものは、この「剥き出しの生」の次元をそれとしてあからさまに示すのであって(ロックダウンによる諸権利の一時的停止、諸個人のビッグデータ化と、それに伴って多様な仕方で行われる生政治的介入、危機における「選別」etc)、この次元が政治の営みにとって重大な意義を持つものであることを入念に示したことが、アガンベンによる「ホモ・サケル」プロジェクトの理論的意義であったといえる。
 
 
 ハイデッガーの『存在と時間』における議論の構成についても、これと同じことが言えるのではないか。現存在、すなわち人間の開示性は、日常性、あるいは通常状態においては十全な仕方で明かされることはない。人間には日常の生のみならず、生の例外状態的次元とでも呼びうる領域も存在しているのであって、この領域は、実は日常においても人間のうちに潜在し続けている。不安や死、良心の呼び声といった現象こそが、この領域が存在することの何よりもの証である。人間の「最も根源的な真理」であるところの実存の真理は、実存論的分析がこの「緊急事態」、あるいは例外状態的次元のうちに突き入ってゆくのでなければ、それとして開示されることはないのではないか。日常性が突き崩され、日常がもはや日常として保たれえなくなるその地点を問うことによってこそ、実存の本来性、そして、「最も固有な存在可能」なる可能性もまた、思考しうるであろう……。
 
 
 
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 実存の非本来性と本来性という『存在と時間』の二分法については従来、そのような二分法を行う必然性は本当にあるのかという疑問を差しはさむことも可能であった。人間の生存において、日常性あるいは通常状態と、そうした日常が突き破られることになる例外状態的な次元とを区別するという発想自体が恣意的なものではなく、事柄それ自体に根ざすものであることを示すのは、容易なことではないのは確かである。
 
 
 しかし、このような従来からの理論的な困難は今日、ジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」プロジェクトが現れるに至って、かなりの程度まで軽減されたのではないかと思われる。政治の領域においては、通常状態と例外状態との区別はそれとしてあからさまに示されているのであって、しかも、例外状態の次元は一つの政治体の成り立ちを考える上で、決して避けることのできない領域である。ゾーオン・ポリティコンであるところの人間の営みがこのように二つの次元に区分されうるのであるとすれば、この事態との類比に従って、人間の実存そのものも二つの次元に従って構造化されているのではないかと考えるのは、それほど不自然な想定ではないと言えるのではないか。
 
 
 これから本格的に論じることになる「不安」の現象は、日常がもはや日常として保たれなくなり、生の別の次元が垣間見えてくる、その臨界点に位置している。
 
 
 不安において人間は、「不気味なもの」の臨在と向き合うことになり、孤独のうちに置かれる。そこでは、日常性において機能していたはずの〈ひと〉に頼ることはもはや不可能なのであって、人間は自らの剥き出しの生という危機そのものに、たった一人で向き合うことを強いられるのである。しかし、人間が人間であることの十全な意味は、本当はこのような生の例外状態的次元においてこそ最も根源的な仕方で開示されるのだとしたら、どうだろうか。もしも現代の哲学に、他の時代の哲学にはない可能性があるのだとすれば、その可能性はおそらく、生そのものを座礁させかねないような危機を思惟しぬき、そのただ中で生を掴みとることのうちにこそある(何となれば、この危機を「危機」として指差すという行為それ自体が、私たちの時代を他でもない「現代」として特徴づけているところの、その当のものであるがゆえに)。ハイデッガーアガンベンの間の思考の符号については一通り論じ終えたので、私たちとしてはこれから、「不安」の現象の分析の方に本格的に進んでゆくこととしたい。