イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

自己破壊的な疑いの果てに、辿り着いた存在

 
 論点:
 「他者であるあなたの心が存在する」は、懐疑するわたしの疑いが決して破壊し尽くすことのできない、最後の一点にほかならない。
 
 
 懐疑とは、ある意味では自らの生に対して振るわれる自己破壊に等しい。ひょっとしたらすべては嘘なのではないか、世界も、実存する一人の人間たるわたしも存在せず、すべては思考する何物かが見ている悪夢にすぎないのではないかと問う時、わたしは、わたし自身の生をも丸ごと破壊しかねないような思惟の力に触れている。懐疑する人は自分でも気づかないうちに、わたしは本当は死ぬべきなのではないかと問うているのである。
 
 
 しかし、わたしがわたし自身の孤絶のうちで出会う他者であるあなたの存在だけは、わたしは何があろうとも決して疑うことができないのではないだろうか。
 
 
 他者であるあなたを傷つけ、殺すことはできない。病の時代である現代にもしもまだ生きる可能性が残されているのだとしたら、それは、病める人間が自己の心や身体を傷つけることをも厭わず、自らの死をさえ願い続けるとしても、自分以外の人間を傷つけることまでは望んでいないという点に存するのではないか。省察における決断は、思考のうちですべてを破壊し尽くす懐疑の力の使用を、その最後の一点において停止することを決意する。それは、理論的に見て疑いえないことの確証に基づく決断ではなく、信ずることへの決断である。わたしは、わたしの思惟によっては決して消し去ってはならない存在として、他者であるあなたの存在を信ずることを決断するのである。
 
 
 
懐疑 病 省察 デカルト レヴィナス 存在の超絶 ある 信
 
 
 
 「他者であるあなた」なる観念のうちには、デカルトが、そして彼の遺産を引き継いで思考したレヴィナスが無限者の観念について見てとったような、あるこの上ない驚異が内包されている。
 
 
 すなわち、他者であるあなたはわたしの思考において思考されながら、わたしの思考を超え、あふれ出てゆく。あなたは、わたしの思考によっては決して汲み尽くされることのない外部としての外部性である。わたしにとって外なるものがありうるとしたら、絶対的に異邦的な存在であるあなたの存在こそが、まさにそれであろう。
 
 
 筆者がレヴィナスという偉大な先人の発見に対してこの省察で付け加えたい論点は、主に言って二つある。まず一点目は、このような他者に対して用いるべき言葉は、「無限者」よりもむしろ「存在の超絶」なのではないかということ。無限者なる言葉はやはり、それを用いるとするならば有限な人間存在ではなく、真に無限な存在であるような存在者にこそふさわしいものなのではないか。レヴィナス自身の信念と主張には抵触するため、彼の同意を得ることは期待できない可能性が高いけれども、筆者自身はやはり、他者の存在には「存在」の語をもって、「ある」の超絶をもって語らなければならないのではないかと考えている(この点については以前の記事でもすでに論じたが、いずれ、より徹底的な仕方で論じなければならない)。
 
 
 もう一点は、こちらの方はおそらくはレヴィナス自身にも多少なりとも面白がってもらえるのではないかと期待しているのであるが、今しているように、他者の存在の「疑いえなさ」について、あえて疑いを提起しながら、その不可能性を倫理的な不可能性として思索しぬくことである。この不可能性に対する洞察は省察において、信による決断という地点にまで達するに至る。この決断から生じてくる不可避的な帰結について、さらに進んで考えてみることとしたい。