イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

省察への補足:永井均氏の哲学について

 
 前回までの『デカルト省察』においては、すべてを飲み込むような懐疑の自己破壊的な力が振るわれる中で、省察するわたしがいかにして一人の実存する人間としての自分自身を取り戻すことができるのかを探求した。次の探求に入る前に、この問題設定が、今のこの国で活動中の一人の哲学者が追い続けている問題と部分的に重なるものであることを指摘しておきたい。それは、永井均氏の〈私〉をめぐる問題圏である。
 
 
 重なる、というと明らかに語弊があって、筆者は「わたしが他の誰でもない『この人間』として存在する」という問題の設定の仕方について、永井氏の仕事から大きな示唆を受けていることを告白しておかねばならない。省察の中で行った、他者の存在を受け入れざるをえないことの倫理的必然性の論証は筆者のものであるが、着地点となる「わたしが『この人間』として存在すること」については、この事実が決して素通りするべきではない、それこそ驚きをもって思考するべき事実であることに関して、氏の仕事から多くを教えられたことは間違いない。
 
 
 筆者の見るところでは、氏の仕事は多くの論点について語るというよりも、上の事実のうちに宿っている比類ない神秘を、神秘の中での神秘として言い当てるというただ一点に全力を傾注しているもののように思われる。哲学の仕事に対するその姿勢から、筆者をはじめとする後続の人間が学ぶべきものは非常に多いものと思われるけれども、こうして書いていると、筆者自身も哲学の探求に引き続き全力で打ち込まなければならないと、改めて気を引き締めさせられる思いである。
 
 
 
デカルト的省察 永井均 世界の毒剤論的存在構造 エクステンティア エッセンティア わたし
 
 
 
 永井氏は最近の主著である『世界の独在論的存在構造』の中で、氏の哲学が追っている問題を「あえて伝統的な枠組みで分類するなら、それは『実存と本質』の対立に属する問題である」と述べておられる(同書7ページ)。筆者の見るところでは、この言葉は、これからの哲学が探求しなければならない課題を指し示すものとして、非常に示唆的なものである。
 
 
 実存(エクシステンティア)と本質(エッセンティア)という言葉はもともと、いわゆる現代哲学の専有物では全くなくて、古代から中世にかけての哲学の伝統の中で、ゆっくりと時間をかけて練り上げられてきたものである。永井氏自身は、自身の哲学と哲学史の関係については多くを語ることはないけれども、上の言葉は、氏の哲学が、哲学の営みそのものの最大の焦点であるところの「存在」の問題圏に深く連なるものであることを指し示しているもののように思われる。
 
 
 ただし、永井氏の哲学はこの「存在」の問題に関して、「存在の問題は、およそ『わたし』という存在の比類なさを考慮に入れない限りは、正しく扱われえないのではないか」という根源的な異議申し立てを行うものであるように見える。確かに、古代と中世はこの点に関して、「わたし」と「存在」の間に存在するこの秘密の紐帯を知らなかった。哲学の営みが「存在」の問題を再びあからさまに提起しなければならないとするならば、その課題は、この「わたし」なる存在の神秘の神秘性を正確に言い当てることなしには、決して果たされえないのではないか……。
 
 
 以上、あまりにも手前勝手な整理の仕方にはなってしまったが、永井氏の哲学が持っている哲学史上の射程について、少しだけ考えてみた次第である。氏には氏ご自身の見立てがあるであろうことは付け加えておかなければならないが、いずれにせよ、筆者自身も筆者なりの仕方で哲学の営みに貢献することができるよう、いっそう探求に打ち込むこととしたい。