外面的な事情を確認するところから始めることにしよう。1927年に出版されたマルティン・ハイデッガーの『存在と時間』は、当時の哲学界でたちまち未曾有の反響を引き起こした。
出版当時30代の後半であったハイデッガーはそれまで、なかなか本を出さないことで知られていた。『存在と時間』を執筆したのも当人の意志からであるというよりも、正式な公刊物を出していないことで大学の教授職への就任を認めようとしなかった文部省との関係が大きかったようである。彼は、職を得るためにもこの本を書かざるをえなかったのである。
しかし、いまだ研究の成果を正式に発表していなかったにも関わらず、ハイデッガーの存在はドイツの哲学界中でよく知られていた。
まずは、フッサールとの関係があった。現象学の祖であるこの師がハイデッガーの才能を非常に高く買っていたこともあって、この弟子から何かすさまじい仕事の成果が出てくるのではないかという予感は、周囲の人々には常にあったようである。ついで、彼の教え子でもあったハンナ・アーレントの表現を借りるならば、学生たちの間にも、講義の中で革命的なことを始めつつある「哲学の隠れた王」がいるらしいということは、噂となって口から口へと伝わっていた。
そういうわけで、これから読もうとしている『存在と時間』という本は、何やら伝説的な出来事が起こるらしいという雰囲気が濃厚に漂っている中で出版され、実際にも予想をはるかに超える伝説になってしまったという、哲学史の中でもいわくつきの本なのである。付け加えておくならば、ハイデッガーという人は骨の髄まで哲学者であるのと同時に、根っからの役者でもあったようである。よい意味であるか悪い意味であるかは別にするとして、何をするとしても、ただごとでは決して済まさない人なのである。
西暦1600年より後、ここ四百年のうちに書かれた本のうちで、哲学の歴史に極めて大きな影響を与えた本が三冊ある。ルネ・デカルト『省察』、イマヌエル・カント『純粋理性批判』、そして、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』である。
これらの本には、哲学者たちが思考するやり方そのものを変えてしまったというところに、共通の特徴がある。これらの本を通して決定的な出来事が起こってしまったがために、時間はもう後戻りすることができず、これらの本に対する反駁や、提案されるオルタナティブですらも、元の本の発想や語彙を用いてでなければ生まれてくることができなくなってしまったのである。
デカルト哲学は、大陸ではスピノザとライプニッツという数奇な後継者たちを生み出し、海の向こうではイギリス経験論の流れに繋がっていった。『純粋理性批判』に始まる三批判書について言うならば、十九世紀の初めに巻き起こったドイツ観念論のムーブメントは、カントの批判哲学を乗り越えることを共通のモチーフとしていたが、当の批判哲学の甚大な影響なしには決して生まれえなかったことだろう。
私たちがこれから読もうとしている『存在と時間』の場合にも、この本の中で行われている思考が、二十世紀の哲学のあり方そのものを大きく塗り替えてしまったことは確かである。たとえば、彼の後に出た哲学者であるエマニュエル・レヴィナスとジル・ドゥルーズについて言うならば、前者はハイデッガーの哲学に正面から反駁を加え、後者は、そのモチーフを脱臼させつつ生成のユートピアを発見するという仕事に携わったけれども、彼らの行った仕事自体がハイデッガー哲学を経由することなしには可能にならなかったことは間違いない。その意味で、『存在と時間』を読むことは、二十世紀の哲学の歴史を読み解く鍵を手にすることに等しいとも言えるであろう。