イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学者の光と影 ハイデッガーとナチズム

 
 『存在と時間』の内容に入る前に、もう一点だけ付け加えておかなければならないことがある。それは、この本の著者であるマルティン・ハイデッガーが、この本を出版した六年後の1933年に、ナチス党の党員としてフライブルク大学の学長に就任したという歴史的事実に他ならない。
 
 
 時代の流れの中で彼はやむをえず、そうせざるをえなかった……と書きたいところではあるが、実情はその反対で、むしろ彼は断固とした決意をもって歴史の舞台に飛び込み、そして壮絶に失敗したのであることが、今日では判明している。ナチスへの支持も、1933年よりも前に遡るものであることが証言されている。彼は歴史を生きる一人の人間として、ファシズムに賭けてしまったのである。
 
 
 私たちの多くは「ハイデッガーとナチズム」というとすでに大分聞き慣れてしまっているので、場合によっては「まあ、そういうこともあるんだろうな」位の受け止め方になってしまいがちであるが、おそらく、当時の人々の反応はそのようなものではなかった。何しろ、ヨーロッパ中で名声を博している第一級の哲学者が、ファシズムの側に立つことを表明したのである。特に、当時の知識階層の人々にとっては、その衝撃はすさまじいものであった。
 
 
 いずれにせよ、この出来事があったがために、哲学の歴史は「避けて通ることは絶対にできないほど重要な仕事を成し遂げたが、世界史の最悪の局面において最悪の方向に向かって決断し、行動してしまった人」という、非常に扱い方の難しい人物を殿堂入りさせることになってしまった。こういう人は他に例がないので、『存在と時間』をも含めて、彼の哲学をどのように評価すればよいのかは、今日でもなお人々の間で大きく意見が割れている。私たちの時代も、厄介な先人を持ってしまったものである。
 
 
 
存在と時間 マルティン・ハイデッガー フライブルク大学 ナチス ファシズム エマニュエル・レヴィナス
 
 
 
 さて、問題はそうなると、『存在と時間』を、そして、ハイデッガーの哲学全体を学んでゆく上で、彼のナチズム加担の事実はどの程度までテクストの読解に反映されてゆくかということになってくる。
 
 
 一方で、これはある程度の時間をかけて哲学を学んだ人であるならばほとんど誰もが否定しない事実であると思われるが、彼の書いたり話したりしたもののうちで、哲学的に見て重要でないものはほとんど皆無である。何をとっても含蓄が深く、学びにどれだけ時間をかけたとしても無駄になるということはないであろう。そのことはもちろん、これから読んでゆく『存在と時間』についてもそのまま言えることである。この本は、三十代半ばの人間が書いた哲学の書物としては異様に完成度の高い内的凝集力を備えた、いわば哲学史の生んだ「奇跡の一冊」なのである。
 
 
 他方で、ナチズム加担の事実を考える際には、彼の著作、特に1933年以前に書かれた『存在と時間』における主張をすべてそのまま受け入れてしまってよいのかという疑念が生まれてくるのも、まことに無理からぬことである。
 
 
 この点についてはのちに論じるように、エマニュエル・レヴィナスという先人がその生涯をかけて、この疑念をその究極にまで突き詰めた。彼は一人の哲学者として、歴史的事実とではなく、ハイデッガー哲学の原理そのものと対決し、そして、彼の「存在の思索」に対する決定的とも思われる批判を提出したのである。ハイデッガーの思索の意義がなくなることは決してないであろうが、この批判がその効力を失うこともまた、決してないであろう。前置きが長くなってしまったが、以上のようなことを念頭に置いた上で、私たちとしてはこれから『存在と時間』の読解に取りかかることとしたい。