イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

愛は、どのようなまなざしであるべきか:『存在と時間』の世界論を論じ終えるにあたって

 
 『存在と時間』の世界論を論じ終えるにあたって最後に指摘しておきたいのは、ハイデッガーが現存在(人間)と世界との関わりについて語るにあたって、「世界との親しみ」という表現を用いているという事実である。
 
 
 すでに論じたように、私たちが日常のうちで出会うものはすべからく、「ア・プリオリな完了」をこうむっている。すなわち、常にすでに、適所全体性という広大なネットワークに属する物あるいは道具として、役に立つものとしての場所を得ているのである。
 
 
 物は、究極的にはみな人間の存在可能に関わっている。すなわち、物は人間が人間になること、人間が人間として生きることを目立たないところから支えているのだ。物が「ある」ということ、物が存在することの意味は、自らは目立たないところに引き退きながら、人間の生活を生活たらしめることにほかならないのである。
 
 
 このような事態をハイデッガーは、「世界との親しみ」という言葉で言い表しているのである。人間は、常にすでに世界と親しみ、世界のうちに存在する物や道具と親しんでいる。物たちはア・プリオリに近しいものとして、私たちの生のかたわらに存在している。
 
 
 世界の無意義性、あるいは生きることそれ自体の無意義性というイデーに取り憑かれている時代において、「世界との親しみ」について語るハイデッガーの世界論は、どのように響くのだろうか。ハイデッガーは『存在と時間』より後の時期には、現代の人間の運命を「存在から見捨てられていること」として語り出すようになる。それに先立って、彼がこの本のうちで展開した世界論は、存在から見捨てられるという運命のただ中で、思惟の営みによってその運命に抗おうとする試みであったと言えるのかもしれない。
 
 
 
存在と時間 ハイデッガー マルセル・プルースト ヴァージニア・ウルフ 世界
 
 
 
 哲学の仕事は、悲劇や戦争、出来事の永遠性や、生きることや死ぬことの意味といった、大きな主題に携わることもある。
 
 
 その一方で、哲学はそれよりもはるかに慎ましい、しかし、それにも劣ることなく重要な主題に従事することもある。ここで必要とされるのは、ふだん通り過ぎられてしまっているものの内奥へと分け入っていって、生活と呼ばれる神秘的な織物を作り上げている、その襞と襞を一つ一つ見分けてゆくような、繊細な形而上学のまなざしにほかならない。
 
 
 ア・プリオリは、私たちの生活のどんな小さな部分にまでも浸透している。そのすべてを解きほぐして、私たちが生きているこの生、部屋で椅子に腰かけてコーヒーを飲んだり、駅から降りてみた知らない街で、曲がりくねった路地を歩いたりしているこの生のうちに宿っている構造と美とをあますところなく明らかにするためには、生きることそのものに対する、どれほどの愛が必要とされることだろう。その愛は、すべてを見つめようとするものでなければならないだろう。ただ一度だけ与えられている命のうちで、目に映るすべてのものを、なしうる限り真っすぐに見つめようとするまなざしでなければならないに違いない。
 
 
 ハイデッガーという哲学者にはさまざまな面があって、『存在と時間』の世界論における彼の仕事の手つきは意外なことに、たとえばマルセル・プルーストヴァージニア・ウルフといった作家たちの手つきからも、それほど遠いところにあるわけではないのである。ともあれ、この本における「世界」という言葉の用いられ方については、以上をもって論じ終えたということにして、私たちとしては、本の読解を先に進めることとしたい。