私たちが生きている日常の生の世界は常にすでに、分節化されている。たとえば、音を聞くという経験にしてからが、すでにそうである。
「『さしあたり』私たちが聞くのは、騒音や音のざわめきではだんじてありえない。軋む車であり、オートバイである。ひとは、行進中の縦隊や、北風、木をたたくキツツキ、爆ぜる火を聞くのだ。」(『存在と時間』第34節より)
私たちは純粋な音を聞くのではなく、「オートバイ」のエンジン音や「北風」のうなりを聞く。ここにはすでに分節化の働きが、意味の次元が入り込んできている。
同じように、私たちが街に出る時に目にするのは「公園の木」や「自転車に乗った人」なのであって、単なる色と形の戯れではない。人間の生とは純粋な感覚の継起などではなくて、そのつど分節化の働きによって織りなされた、「意味に浸された生」なのである。意味は、私たちが物事に意味を与えようと考えたりするよりも前に、常にすでに、私たち自身の世界内存在を作り上げてしまっているのだ。
「生きていることに、意味なんてない。」私たちは時折、生きることそれ自体に絶望する中で、そのようにつぶやいたりすることもある。
しかし、どれほど絶望しようとも、人間には、物事が意味を持つことを止めることはできないのである。それは、生きるとは、意味が与えられてゆくという過程そのものだからだ。意味はわたし自身から、しかし、わたし自身にも押しとどめることのできない深い奥底から、泉が湧き出るようにして流れ出てくる。この「深い奥底」の次元こそが、ハイデッガーが「語り」と名づけるものの指し示す領域にほかならない。
「了解可能性は、領有する解釈にさえ先だって、常にすでに分肢化されている。語りとは了解可能性の分節化なのである。」(『存在と時間』第34節より)
私たちの生は、目に見え、耳で聞くことのできる言葉となって語られるよりも前に、まるですでに語られてでもいるかのようにして分節化されている。「語り」という名称が一面においてはミスリーディングなものであることは確かであるが、他面、意味をめぐる上の逆説を、その逆説がもたらす深い驚きを消し去ってしまうことなく言い表そうとしているという意味では、非常に巧みな言い方であると言えるのかもしれない。
哲学も人間の行う営みであるから、その目指すところには当然、「世界を変える」といったことも含まれてくる。本質的な仕事を成し遂げた過去の哲学者たちのうちで、自分は哲学をすることによってこそ世界に働きかけるのだということを深く自覚しなかった人はいなかったのではないかと思われる。
しかし、哲学の営みはその一方で、決して何らかの問題に対する「すぐによく効く処方箋」を提供するものではありえない。哲学はむしろ深く潜ってゆくことを、公共性の次元からいったん身を引き退いて、自分自身の生の根底にまで降りてゆくことを人間に教えるのである。いま問題になっている「語り」の契機についても同じことが言えるのであって、私たちが本当の意味で互いに語り、聞くということをなしうるためには、言葉の活動の本性を、それを可能にしている生の土台そのものとの関係において根本のところから捉え直す必要があるのではないか。私たちとしては引き続き、「語り」に関する論点を掘り下げてみることにしたい。