イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

知る勇気を持つとは、いかなることか:カントが「啓蒙とは何か」を通して、私たちに語りかけていること

 
 死の可能性のうちへと先駆することによって、現存在であるわたしは「単独な現存在を生きること」の圏域へと導き入れられてゆく。この「単独な現存在」なる規定については、イマヌエル・カントが1784年に書いたテクスト「啓蒙とは何か」を参照しながら、ここでもう少し掘り下げておくこととしたい。
 
 
 カントはこのテクストの冒頭において、「啓蒙」なる概念に対して卓抜な定義を与えている。そのよく知られた箇所を、ここに引用してみる。
 
 
 「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。」
 
 
 このテクストにおいて、カントは彼の言う「未成年の状態」を、自分の理性を用いる勇気を持てないこととして定義している。「自分のような人間が自らの判断に頼って生きてゆこうとするならば、何か大きな失敗を犯すことになってしまうのではないか。」このような恐れを抱くのと同時に、人間は、自分自身の理性を用いて思考することに対して制限をかけてしまう。ハイデッガーの言い方を用いるならば、現存在であるわたしはこのような「恐れ」の気分と共に、自らの内なる〈ひと〉の働きに身を委ねるのであると言えるかもしれない(このことは、〈ひと〉と同じであることの安らぎは、本当は〈ひと〉から切り離されることへの恐れと一体になっているという実存論的な事実を示唆しているものと思われる)。
 
 
 これに対して、「啓蒙」とはカントによれば、この「未成年の状態」から決定的な仕方で抜け出ることを意味している。すなわち、人間は、「啓蒙」の段階においてはもはや盲目的に何らかの権威や他者の恣意に従うことなく、自分自身の理性を用いて思考することを恐れない。考えるという行為にはこのように、「思考する人間がたった一人でさまざまな物事のあり方を見定め、捉えることを試みる」という意味において、単独な現存在の引き受けと共にしか行われえないという側面があるのではないだろうか。再びハイデッガーの方に議論を引きつけて考えるならば、カントのいう「啓蒙」のモメントは、現存在であるわたしが「自分自身の理性を用いて考える」という、自らに固有な存在可能を引き受けるところにこそ初めて成立するのであると言うこともできそうである。
 
 
 
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 カントは上に引用した箇所に引き続いて、以下のように書きつけている。
 
 
 「こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは『知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)』だ。すなわち『自分の理性を使う勇気をもて』ということだ。」
 
 
 「単独者であること」、あるいは「単独な現存在を生きること」という規定のうちにはおそらく、哲学という営みの生命そのものがある。デカルトが自らの哲学を築き上げるにあたって、世の中のすべての物事から自分自身を切り離して、ひとり炉部屋に閉じこもったという歴史的事実のうちには、単なる一事例にとどまることのない象徴的な意味が宿っているのではないだろうか。考えるとはおそらく、考えること以外のいかなる審級にも理由なしには決して従わないことを、「いかなる権威が、ある問題について何を言っていようとも、わたしは、わたし自身の理性に従ってその問題について考えることの方を望む」といったような実存のあり方を選択することをこそ含意しているのである。
 
 
 カントが1784年に書きつけた「啓蒙とは何か」の言葉のうちには、比類のない自由の感覚が生き生きと働いている。おそらくは、上に引用したような定義をはじめて目にした時には、誰もが次のような疑問を抱かずにはいられないことだろう。「そんなことを言って、自分自身の頭で考えることによって失敗を犯してしまったら、間違ってしまったとしたらどうなるのか?」カントはテクストのうちで、この疑問に対しては次のような趣旨の回答を与えている。「もちろん、失敗するようなことも往々にしてあるだろう。間違えることもまた、稀ではない。しかし、私たちは私たち自身が持っている可能性に対して、もっと自信を持つこともできるのではないか。人間が本当の意味において人間になってゆくのを止めることは、誰にもできない。すなわち、彼あるいは彼女が、自らの意志によって自分自身を啓蒙してゆくことを、自らを縛りつけていた拘束から解き放たれて真に自由な存在になってゆくのを止めることは、誰にもできはしないのである。」
 
 
 「単独な現存在を引き受けること」という課題は、決して容易に達成できることではない。しかし、この点について哲学者たちの言っていることは古代から現代に至るまで、紛れもなく一致しているのであって、「考えることを、自分自身の足で世界のうちに立とうとすることを恐れるな」こそが、彼らの変わることのない信念に他ならないのである。「本来的な自己を生きること」の実存論的な内実を問う『存在と時間』後半部の議論もまた、この不変の信念に対する忠実を守っていると言うことができる。その議論の方へと立ち戻ってゆく前に、私たちとしてはもう少しだけカントのこのテクストのもとに踏みとどまって、今回の記事で扱った論点に対するもう一点の補足を行っておくこととしたい。
 
 
 
 
[二日前の記事「ルビコンは渡られねばならない」は内容が重いものであったにも関わらず多くの人に読んでいただき、本当にありがとうございました。Twitterの方では記事に対していただけたコメントのおかげで、議論を深めることができたと思います。今日の記事もそうですが、哲学の問いを投げかけさせていただける関係が生まれていること自体、感謝というほかありません。]