イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

注釈の試み

 
 前回の記事を書いたあとの夜中にこれを書いているのですが、「置かれた場所に咲きなさい」という言葉のうちには、思った以上に深い意味が込められているのではないかという気がしてきました。
 

 まず、「置かれた場所」ですが、ここには、私の存在を贈与されたものとして捉える思考が働いています。


 わたしは自ずから立つのではなく、置かれる。この「置かれる」のうちには、存在することそのものの受動性とでも呼ぶべきモメントが表現されているように思われます。


 ただちに、フッサールの「受動的総合」や、メルロ・ポンティの「肉」についての思索が思い出されるところですが、これに続く「場所」という言葉にも、引きつづき注目してみたい。


 わたしが今いる場所を、存在の贈与が生起するまさにその場所として捉えるとき、わたしがわたしであるとは、時–空の空け開けという出来事そのものであることが明らかになります。わたしはそのような空け開けとして、呼び促されつつ置かれた場所におのれを見いだすというわけです。


 そして、最後の「咲きなさい」がすばらしい。ここでは、わたしは、現–存在としての人間のみならず、ピュシス、すなわち自然においてみずから働きだすものとして思惟されているといえます。わたしと花をめぐるメタファーのうちには、エリウゲナの「創造され創造しない自然」のみならず、トマス・アクィナスのアナロギアの思索をかすかに連想させつつ、さらには哲学の原初を生きたアナクシマンドロスその人にまで思いを馳せさせるような力があるといえるかもしれません。
 
 

置かれた場所で咲きなさい 渡辺和子さん フッサール メルロ・ポンティ 存在 贈与 マルティン・ハイデッガー



 以上のことをまとめると、次のように言えるかと思います。


 「置かれた場所で咲くこととは、存在することそのものの贈与の受動性のうちで生起する時–空の空け開けにおいて、現–存在としてのわたしが、同時にピュシスに属するものとして働きだすことである。」


 どう考えても渡辺和子さんのコンパクトな表現の方がわかりやすい上に完成度もはるかに高いことは間違いありませんが、注釈の試みとしてここに記しておくことにします。注釈の宿命として、オリジナルにははるかに及ばないことを容赦していただければ幸いです……。


 ちなみに、今回の記事を書いたきっかけとしては、夜中に起きてひとしきり黙想したのちに、あまりにもお腹が空いて食べたケンタッキーフライドチキンとビスケットがあまりにもおいしすぎてテンションが最高潮に達したという事情があります。カーネル・サンダースの本来的実存が生み出した珠玉のレシピは、人間を、贈与された時–空の空け開けにおいて深夜のハイテンションに目覚めさせずにはおかないようです……!
    
      
マルティン・ハイデッガーの思索に敬意を表しつつ)