イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「アレーテイア ἀλήθεια」

 
 根本テーゼ「現存在は真理のうちで存在している」について、さらに考えてみることにしよう。
 
 
 私たちがこの四ヶ月の歩みの中で見てきた実存論的分析の成果のすべてが、今や、真理論の観点から解釈しなおされることになる。すなわち、道具を用いて生活している「配慮的気づかい」のあり方だけでなく、内存在の三つのあり方(情態性、理解、語り)もまた、「覆いをとって発見すること」と切り離せないと言えるのではないか。
 
 
 情態性の場合を例にとろう。現存在であるところの人間は、常に何らかの気分によって気分づけられながら、世界のうちに存在している。気分はわたしが置かれている状況を、つまり、わたしの〈現〉を開示する。わたしはいわば、気分のうちで、わたし自身の意図を超えて、自らの世界内存在そのものを「覆いをとって発見してしまっている」自分自身を見出すのである。
 
 
 わたしが生きているということ、世界内存在することは、そのまま発見することに向かって開かれていることであり、明るみのうちに立つことなのであると言えるのではないか。明るみのうちで存在者が、世界が、そして、わたし自身の自己が「覆いをとって発見される」。だからこそ哲学は、「真理なるものは、人間から遠くに離れたところに存在するといったような類のものではない」と言わざるをえないのだ。むしろ、わたしが人間として生きる限り、わたしは常に何らかの「真理のうちで存在者を見出すこと」として、わたし自身の生を生きるのである(すなわち、「現存在は、真理のうちに存在している」)。
 
 
 このように、今や生きることそのものが「真理において生きること」と一致するこの地点こそが、『存在と時間』の真理論の到達点である。そして、このような広がりのもとで捉えられた「覆いをとって発見すること」こそが、ハイデッガーがこの本を書いた時期に、根源語である「アレーテイア」という言葉のうちに見てとっていた意味にほかならなかった。
 
 
 
 真理論 情態性 配慮的気遣い 世界内存在 ハイデッガー 覆い アレーテイア 存在と時間
 
 
 
 「真理」を意味するギリシア語の「アレーテイア ἀλήθεια」は『存在と時間』の、そして、それ以降のハイデッガーの全思索を突き動かし続けることになった、鍵語の中の鍵語である。
 
 
 アレーテイアとは、存在者が隠されているあり方から、隠されていないあり方へともたらされることを意味する。それは、存在者の光の中への立ち現れであり、存在者が、光の中へ立ち現れるという仕方で示されることそのものである。この出来事のうちには、ある意味で『存在と時間』という本が向き合おうとしている事象のすべてが凝縮されている。この「アレーテイア」の概念は同時に、西洋哲学が二千年間にわたって追い求め続けてきたものの一つの総決算にもなっていると言えるであろう。
 
 
 ここで改めて注目しておきたいのは、ハイデッガーという先人が、この「アレーテイア」の概念が指し示す事柄を思索しぬくために、その後の五十年近くの歳月のすべてを費やしたという事実にほかならない。
 
 
 五十年という年月は、伊達ではない。おそらく、哲学の営みにおいては、多彩な知の戯れを演じてみせるといったことよりも、はるかに重要なことがあるのだろう。それは、自分自身に与えられたたった一つの事柄に向かって、ただひたすらに歩み続けることである。つまりは思索し続けること、自分自身の全実存を捧げて考え続けることであって、哲学者の一生とは、この「たった一つの事柄」への畏敬と専念以外の何物でもないのであろう。
 
 
 どの哲学者にも、彼あるいは彼女が真に「その人自身」となるような、決定的な瞬間がある。筆者はハイデッガーにとってのこの瞬間を、彼が『存在と時間』第44節bを書きつけた、まさにその時に見る。「アレーテイア」という語を自分自身の思索とのつながりのうちで書きつけたその時に、ハイデッガーは、もはや後戻りのできない仕方で「哲人ハイデッガー」としての自己自身に目覚めたのである。以後、ついに長い闘いを終えて息を引きとるその時まで、彼がこの語を手放すことは決してないであろう。