イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

教育の問い

 
 ところで、これから教育という仕事にあらためて打ち込んでゆくということになると、次の問いが以前よりもくっきりと浮かび上がって来ざるをえません。
 

 「よい教育とは、どのようなものであるべきか。」
 

 これはある種の応用問題であるようにも見えて、実は哲学の根幹に関わる問いであると言えるのではないか。哲学の始祖の一人たるプラトンの著作のページをめくっていると、どうもそのように思われてなりません。
 

 しかし、言うまでもなく、この問いに答えることは決して容易ではありません。なぜなら、この問いに十全な形で答えるためには、ひとは人間のあるべき姿を前もって知っているのでなければならないことになるからです。
 

 そんなもの、誰も知っているわけがないではないかという気もしますが、その一方で、教育の実践はこの不可避的な無知のかたわらで日々行われつづけないわけにはゆきません。たとえ幾分か的を外している可能性はいつまでも残るにせよ、教育者は自分なりの答えと共に日常の現場で踏ん張り続けなければならないのではないか。
 

 そう思うと、この仕事に携わる人間の責任の重さが改めて全身にのしかかってくるような思いに捉われます。責任という言葉に対して反射的な拒否反応が出そうになるあたり、筆者自身が人間として致命的な何らかの欠陥を抱えていることは否定できないような気もしますが……。
 
 
 
教育 青少年 学習指導要領 教師
 


 難しいのは、「教育者は教育のあり方に自信を持つべきか」という問いに対する答えは、必然的に複雑なものであらざるをえないという点です。
 

 仮に、ある教育者の教育理念が壮大に間違っていたという場合、その教育者が確信にもとづいて青少年たちに接してゆくとすれば、結果は目も当てられないことになるでしょう。この場合においては、その教育者は輝ける青少年たちの導き手であるどころか、最悪のケースにおいては、反社会勢力の扇動者(?)になる危険すらもありえます。
 

 それでは、そういう大きなミスが起きないように、何の落ち度もない学習指導要領の申し子になればよいのかというと、それだけでは善き教師であるとは言えないのではないかという印象は拭いがたい……。どうやら、教育の問題は、その出発点からして原理上の困難をはらんでいると言わざるをえないように思われます。