イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ソクラテスの道

 
 論点:
 哲学者が追い求めるべきものは、金銭でも名誉でもなく、真理である。
 
 
 お金と承認については、すでに考えた。それで今やわれわれは、真理へと進まねばならぬ。
 
 
 真理である。よく考えたら、他に何か目的を持たずに真理のみを求めるというのは、なかなかすごいことである。しかし問題は、どんな真理を追い求めればよいのか、ということではなかろうか。
 
 
 たとえば、数学の定理とか物理学の法則だって、真理は真理である。哲学の追い求めるべき真理とは何かとなると、それこそ哲学者の数だけ色んな意見があって、そういうところも一致しないって哲学ってなんなのそれというツッコミもあろうが、少なくとも僕個人としては、次の問いが哲学の問いの中では最も大切なものなのではないかと考える。
 
 
 問い:
 われわれ人間は、いかに生きるべきか?
 
 
 昔はぜんぜんそんな事考えてなかったけど、いや、大切ですよ。われわれは、何のために生きているのか。こういう問いを口にするだけで、そこはかとなくテンションも上がろうというものではないか。
 
 
 色んな意見もあろう。哲学については、もっと知的でクールな見方をしている人もいるかもしれぬ。僕も、そういうのももちろん好きなんだが、しかし究極すれば、哲学はやはりこの問いに集約されるのではなかろうか。ブレまくりながら、間違いも犯しながら、われわれは日々、この問いを胸に抱きながら歩み続けねばならぬ……。
 
 
 
哲学者 お金 承認 真理 ソクラテス ニート
 
 
 
 しかし、なぜこの立派な(?)問いをおのれに課す哲学者という種族が、往々にしてうだつの上がらない、というか、ぶっちゃけしょっぱいおじさんとして生きてゆくことになるのかというのは、それこそ永遠の謎である。だが、僕は思うのだ。
 
 
 ソクラテスの伝記を読んでると、僕たちは、「彼は、いわゆる定職にはついていなかった」という記述にぶつかる。それで僕たちは、マジかよニートじゃんというあのお決まりのツッコミを入れながら、何か気の抜けたような、しかし不思議と慰めと力を受けとらずにはいないような、そういう何とも言えない気分にさえさせられるのではないかろうか。
 
 
 親しい友達とかと「われわれはいかに生きるべきか」とか語り合うことって、本当に大事なことなんではなかろうか。定職についてない状態を最後まで貫き通したソクラテスは、哲学的にはマジで仕事してる、いや仕事してないんだけど、仕事しないっていうしかたで仕事してるんではないかと思うのである。僕はソクラテスほどには勇気がないから、うだつが上がらないながらも働かねばならぬね。ここ数年は、また別の文脈から働くっていいことだなと感じることも増えてきてはいるのだが、しかしソクラテス・スタイルはそれはそれで、いやーほんとに仕事してるなーと思わされる次第なのである。