イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「理性的動物」と「存在の牧人」

 
 「本質の真理」が関わる問題圏の射程を感じ取るために、もう一つ具体例を挙げてみることにする。
 
 
 問い:ソクラテスとは何か?
 答え:ソクラテスは人間である。
 
 
 まずは、ソクラテスという個体、あるいは個人に関して、「そのものは何であるのか(ト・ティ・エーン・エイナイ)」と問うわけであるが、その答えは、ソクラテスの形相(エイドス)は人間であるというものである。この時点ですでに岩波的クラシック感漂う本格哲学の薫りがそこはかとなく漂わずにはいないが(当たり前のことをもったいぶって表現しているだけなのではないかとの見方もありうるが、雰囲気もやはり大事である)、われわれ人文知の徒としては、やはりさらに進んで、次のように問わねばなるまい。
 
 
 問い:人間とは何か?
 
 
 人間とは何か。何が人間をして、本当の意味で人間たらしめるものであるのか。哲学っぽい。これはもう誰がどう見ても、めちゃくちゃに哲学っぽい問いであると言わざるをえないのではないのか。
 
 
 かくして、本質の真理を問うことは、哲学することそのもののど真ん中に突っ込んでゆく激アツな営為であることがわかってくる。「〜とは何か」と始終問い始めたとしたら、その人はもう哲学者の見習いである。ただし、問うだけで答えようと全く努めないとすれば、それはそれで残念ではあるが、まずはこのように問うことに慣れ親しむというだけでも、本格哲学の世界への扉を開くことにはなるはずである。
 
 
 
本質の真理 ソクラテス エイドス 人間 岩波 アリストテレス ハイデッガー デカルト
 
 
 
 さて、もう少しだけ上の具体例について見ておくことにしよう。「人間とは何か」という問いには、哲学の歴史上、さまざまな答えが与えられてきた。ここではそのうち、ど真ん中ストライクな最強の回答を二つ見ておくことにする。
 
 
 ①アリストテレスの回答:人間とは、理性的動物である。
 ②ハイデッガーの回答:人間とは、存在の牧人である。
 
 
 ①は非常に古典的ではあるが、なるほどむべなるかなと頷かせられる回答である(原語からのラテン語訳がanimal rationaleで本当に良かったのかという古くからの問題は、とりあえず置いておくこととする)。哲学とはまことに自明性をどこまでも深く掘り下げてゆく営みであるなあと実感させられずにはいないが、たとえばデカルトに始まる近代の「意識の哲学」の系譜は、言ってみればアリストテレス先生のこの回答に対する長い長い注釈みたいなものなのかもしれないなあと思うと、ヨーロッパ近代とは、やはりギリシア的命運の正面からの引き継ぎであったという歴史の見方にも、ある程度の納得がゆくようになってくるのかもしれぬ。
 
 
 これに対して②は、現代哲学最強のドンが出した、哲学史上でも究極の回答の一つである。ていうか、牧人って何すかと思わずツッコまずにはいられない圧倒的なぶっ飛び感は否めず、それこそ古代ギリシアの哲人とかが言うならともかく、原子力サイバネティクスの二十世紀にこのイルなバースをぶちかましてきたハイデッガー先生のとてつもなさは、やはり前世紀とはこの人の個性がいかんなく炸裂した世紀であったなあと思わせるに十分である。今回の記事ではこれ以上論じることはできないが、「真理とは何か」を問う今回の探求では、この「存在の牧人」という回答が関わる問題圏にもいずれ踏み込んでゆく予定である。