死後の問題については、次の論点を見ておくことにしたいと思います。
「死後の問題は、人間が解決するのではなく、メシアによって解決される。」
この問題においては、人間にはイニシアティブを握ることが決してできません。人間にできるのは、ただ、メシアによって提示される永遠の命というイデーについて思いをめぐらせつつ、信じつつ受け入れるということだけです。
ここからは、より一般的で興味深い帰結を引き出すことができるように思います。すなわち、哲学という営みはそもそも、人間のみの力では、ゆくべきところまでゆきつくことができないのではないか。
このブログではすでに、倫理(『倫理の根源へ』)や人権(『人権はリアルである』)といったテーマに関して、このことを見てきました。筆者はこののちも引き続き、「メシアは哲学を破壊せず、完成する」というテーゼにしたがいつつ、これまでの哲学の歴史と対決してみたいと考えています。
かなりトリッキーな考え方にもみえますが、トマス・アクィナスやマルシリオ・フィチーノといった人たちなら、おそらくはこのテーゼに賛同してくれるのではないか。もう一点だけ付け加えておくと、メシア的なものという概念は、筆者には、ヴァルター・ベンヤミンやジョルジョ・アガンベンといった人たちが考えるよりも、はるかに豊かなものをはらんでいるように思われます。
今回の記事では、もう一つ、次のようなテーゼを提出しておくことにしたい。
哲学と神学の境界不分明性テーゼ
「死後の問題は、人間が解決するのではなく、メシアによって解決される。」
この問題においては、人間にはイニシアティブを握ることが決してできません。人間にできるのは、ただ、メシアによって提示される永遠の命というイデーについて思いをめぐらせつつ、信じつつ受け入れるということだけです。
ここからは、より一般的で興味深い帰結を引き出すことができるように思います。すなわち、哲学という営みはそもそも、人間のみの力では、ゆくべきところまでゆきつくことができないのではないか。
このブログではすでに、倫理(『倫理の根源へ』)や人権(『人権はリアルである』)といったテーマに関して、このことを見てきました。筆者はこののちも引き続き、「メシアは哲学を破壊せず、完成する」というテーゼにしたがいつつ、これまでの哲学の歴史と対決してみたいと考えています。
かなりトリッキーな考え方にもみえますが、トマス・アクィナスやマルシリオ・フィチーノといった人たちなら、おそらくはこのテーゼに賛同してくれるのではないか。もう一点だけ付け加えておくと、メシア的なものという概念は、筆者には、ヴァルター・ベンヤミンやジョルジョ・アガンベンといった人たちが考えるよりも、はるかに豊かなものをはらんでいるように思われます。
今回の記事では、もう一つ、次のようなテーゼを提出しておくことにしたい。
哲学と神学の境界不分明性テーゼ
: ひとは、哲学がどこで終わり神学がどこで始まるのかを、確定することができない。
中世や近代においては、哲学と神学のあいだに区別があることはほとんど自明の公理とされていましたが、おそらく実情はそうなっていないのではないか。メビウスの輪やクラインの壺のように、哲学に神学が貫入し、神学に哲学が入りこまずにはいないというのが、思考の運命だとしたら……。
境界不分明性テーゼは、この世をこの世の中だけで語ることは許さず、この世のロゴスについて語るためには、思考は神の愛に触発されることを必要とすると主張しています。にわかには受け入れがたいことのようにもみえますが、このことの帰結をもう少しくわしく追ってみることにしましょう。
中世や近代においては、哲学と神学のあいだに区別があることはほとんど自明の公理とされていましたが、おそらく実情はそうなっていないのではないか。メビウスの輪やクラインの壺のように、哲学に神学が貫入し、神学に哲学が入りこまずにはいないというのが、思考の運命だとしたら……。
境界不分明性テーゼは、この世をこの世の中だけで語ることは許さず、この世のロゴスについて語るためには、思考は神の愛に触発されることを必要とすると主張しています。にわかには受け入れがたいことのようにもみえますが、このことの帰結をもう少しくわしく追ってみることにしましょう。