イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学に炎は必要か

 
 ところで、哲学という営みのあり方について、この機会に提起しておきたい問いが一つあります。


 「哲学をするのに、燃える心は必要か。」

 
 この問いに対する答えとしては、次の二つのものが考えられます。

 1.必要ではない。理性によるロジックの積み上げだけで十分である。
 2.必要である。燃える心なしに、真理にたどりつくことは不可能である。


 1のような立場もありうるかとは思いますが、筆者としては、2の立場を大いに支持することにしたい。そこにはさまざまな事情がありますが、理由はまず何よりも、直観的なものです。


 思考は炎です。熟練した哲学者になるためには、言葉の吟味やたえざる懐疑が必要なことは言うまでもありませんが、その他の何にもまして求められるのは、ものごとのロゴスを輝かせつつ閃かせる、イデア的なものへの情熱なのではないか。


 スピノザが言うように、真理は、言い表されるまさにその瞬間に、真理として自らをあらわさずにはおかないのではないか。真理の見せかけに幻惑される危険はつねにあるとしても、アレーテイアがアレーテイアのみによってアレーテイアであるという原理は、やはり否定できないもののように思われます。


 
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 「真を知る内なる目が純化される……。」中世の哲学者である、サン・ヴィクトルのフーゴーの言葉です。これと同じ事態を、筆者が尊敬してやまないアーティストである故DEV LARGEさんは、真心眼(マシンガン)という言葉で表現しています。


 「マシンガン」という音の響きがすばらしいですが、真実を見抜く魂の真心眼を育てあげることは、哲学者にとって何よりも大切なことの一つであるように思われます。キリストも『ヨハネの黙示録』などでは、燃えるような眼の持ち主として描かれていますし……。


 「ここがロドスだ。ここで跳べ!」理屈ばかりこねているようでいて、哲学者という種族は、最後には情熱でウルトラジャンプを敢行するのを何よりも愛する人たちなのかもしれません。ニーチェキルケゴールを挙げるまでもなく、跳躍は浅田真央ちゃんよりも哲学者の仕事だということなのでしょうか。


 このあたり、もう少し冷静に事態を眺める必要もありそうですが、たまにはハイパーカオスもありということで、今回はこの辺りにしておくことにします。「哲学に炎は必要である」を、とりあえずの結論とさせていただきます……!