イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

選択と決断:現存在であるところの人間が、「わたしは、わたし自身の生を生きている」と言うことのできる根拠とは何か

 
 さて、私たちは読解を進めてゆくにあたって、なぜハイデッガーが『存在と時間』において「良心の呼び声」なるテーマについて論じたのか、その必然性を理解すべく試みてみることとしたい。その上で押さえておく必要があるのは、以下のような論点なのではないかと思われる。
 
 
 論点:
 『存在と時間』の後半部の議論の主要モチーフの一つとは、「決意によって、自己を取り戻すこと」に他ならない。
 
 
 ここには、「私たち人間存在にとって、生きるとはいかなることか?」という問いに対して、20世紀の哲学が提出した決定的な応答の一つがあると言うこともできそうである。ハイデッガーの議論を、ここに再構成してみることにしよう。
 
 
 これまでの読解において示されたところによるならば、現存在であるわたしは、日常性の次元においては〈ひと〉のうちへと喪失されているのだった。すなわち、日常におけるわたしは立ち止まって考える間もないままに、〈ひと〉と同じように感じ、〈ひと〉と同じように語り、〈ひと〉と同じように振る舞わなければならないという流れの中に常にすでに身を浸してしまっているのであって、その結果としてわたしには、「わたしとは誰か?」という問いを発することもなくなっている。わたしとは、誰でもない誰かである。あるいは、わたしとは、「誰でもない誰か」として常に他者たちとの比較のうちで自己評価をさせられているところの、数値化可能なパラメーターに他ならない(〈ひとである自己〉のうちへの、自己の喪失)。
 
 
 そうであるならば、「わたしとは誰か?」と明示的に問いつつ、「本来的なわたし自身」を掴み取ることに向かって手を伸ばすことは、自己自身であるという選択を、はじめて「他の誰でもない、自分自身の選択」として引き受けることを意味するのではないか。日常性におけるわたしには、「わたし自身を選択する」という可能性それ自体が、そもそも視界に入っていなかったのである。この意味からするならば、わたし自身の本来的な存在可能を掴み取るとは、選択の可能性を後から取り戻し、「他の誰でもない、わたし自身の選択を選択すること」としてしか遂行されえないと言えるのではないだろうか。
 
 
 
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 「〈ひと〉からじぶんを連れもどすこと、つまり〈ひとである自己〉が本来的な自己存在へと実存的に変様するということは、一箇の選択をあとから取りもどすこととして遂行されなければならない。選択を取りもどすことが意味するのはたほう、この選択を選択すること、すなわち固有の自己にもとづいて或る存在可能へと決断するはこびなのである。選択を選択することにあって現存在は、その本来的な存在可能をはじめてじぶんに可能とするのだ。」(『存在と時間』第54節より)
 
 
 ここでのハイデッガーの議論から引き出されてくる重要な論点、それは、「わたしとは誰か?」という問いに対して正面から答えようとする際には必ず、選択と決断の問題が関わってこざるをえないということなのではないだろうか。
 
 
 「わたしとは誰か?」という問いは、それをわざわざ問うたりしなくても、「そのままやっていけてしまう」ものなのである。〈ひと〉の流れは圧倒的で、勢いもあり、押しとどめがたい。現存在であるわたしには、自分自身の自己を喪失しながらそのまま生活し続けてゆくということも、十分に可能なのである。
 
 
 しかし、すでに見たように、「死への先駆」は現存在であるわたしを、〈ひと〉であることから連れ戻さずにはおかないのだった。死へと先駆すること、自らの死の可能性を正面から見据えることは、実存の全体を一つの「全体的存在可能」として、「賭け」として提示する。すなわち、「先駆」は現存在であるわたしに対して、「本来的なおのれ自身を生きること」という未曾有の可能性を、あたかも閃光のようにして啓示せずにはおかないのである。今や明らかになりつつあるのは、この可能性を現実のものとして掴みとることは、紛うかたなき「選択を選択すること」を通してでしかありえないという実存論的事実にほかならない。生きることの全体を丸ごと引きさらってゆこうとする奔流のただ中で、現存在であるわたしは、この奔流に抗するようにして、自分自身の自己を掴みとることを決意する。「わたしが他の誰でもない、わたし自身であるということ」は、一つの選択あるいは決断によってのみ獲得される事柄なのである
 
 
 1927年に出版された『存在と時間』は2022年の現在を生きている私たちに対して、「人間存在にとって、生きるとはいかなることか?」という問いに関する一つの決定的な契機の存在を、この上なく明確な仕方で提示している。繰り返しにはなってしまうが、その契機こそが選択であり、決断に他ならないのである。ハイデッガーが「良心の呼び声」の分析を行うのはまさしくこの文脈においてのことなのであるが、私たちはこれからその地点へと進んでゆく前に、「自己が自己であるということ」が人間存在にいかなる変容をもたらすのかという点について、前もって見ておくこととしたい。
 
 
 
 
[読んでくださって、ありがとうございました。「選択すること」は、1920年代のハイデッガーが熱を入れて研究した本の一つである、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の主要テーマでもあります。ハイデッガーの持ち出してくる「選択と決断」のテーマは、彼自身による完全な独創というよりは、二千年間にわたる哲学の伝統との格闘の中で、実存するということのエッセンスを掴み取ってくるようにして提出されたものであることは確かなようです。『存在と時間』の叙述は必ずしも分かりやすいものではないので、「自己」と「選択」、そして「良心の呼び声に耳を傾けること」の間の連関については、見てとるのが難しくなっている側面もあるのではないかと思います。以降の読解では、この連関をできる限りクリアーなものとして把握するよう試みてみることにします。]