イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「実存」の概念をめぐる探求が辿り着いた、比類のない自由:「先駆」に関する議論を締めくくるにあたって

 
 「死への先駆」をめぐる議論に決着をつける時が、ようやくやって来たようである。少し長くなってしまうが、最初に、ハイデッガー自身が探求を総括している部分を引用しておくこととしたい。
 
 
 「実存論的に投企された、死へとかかわる本来的な存在の性格づけは、つぎのように総括される。先駆することによって現存在に対して、〈ひとである自己〉のうちへと喪失されたありかたが露呈され、現存在はそのことで、配慮的に気づかいながら顧慮的に気づかうことに第一次的には依拠することなく、じぶん自身でありうる可能性のまえに置かれることになる。このじぶん自身とは、情熱的な、〈ひと〉の錯覚から解きはなたれており、しかも事実的でそれ自身を確実なものとし、そのさい不安をおぼえているような、死へとかかわる自由におけるじぶん自身なのである。」(『存在と時間』第53節より、強調部分は引用者による)
 
 
 ここで語られている「死へと関わる自由 Freiheit zum Tode」という表現へと辿り着くことを目指して、これまでの議論を振り返ってみることにしよう。
 
 
 前回の記事で見たように、現存在であるわたしが「死へとかかわる本来的な存在」を生きる時には、わたしは自分自身に迫ってくる脅かしのうちへと、決然として突き入ってゆくのだった。この端的な脅かしは、「不安」の気分を通して開示される。根本的情態性であるところの不安のうちで事実的に存在していることを通して、わたしはわたし自身の存在を「確実なものとする」、すなわち、自らの存在を根底から受け取り直すのである。
 
 
 キルケゴールが、不安を「自由のめまい」と呼んでいたことを思い起こそう。人間が不安を感じるのは、その根源においては、彼あるいは彼女が自由な存在であるからに他ならない。不安はわたし自身のうちで、わたし自身を形作っている「可能性に関わる存在」を、他の何物にもまして鋭く開示せずにはおかないのである。
 
 
 さて、この時にわたしに対して開示されるものこそ、「本来的なわたし自身」なるものをダイレクトに掴みとるという可能性に他ならない。すなわち、現存在であるところのわたしはさしあたり大抵、事物や人間関係といったものが形づくる「日常性のネットワーク」のうちにはまり込みつつ、自己を喪失しているのだが(これがハイデッガーの言うところの、「世界への頽落」である)、「死への先駆」はこの「はまり込み」の事実をそれとして露呈しつつ、そこから抜け出させ、わたし自身を、この「はまり込み」の状況に第一次的には依拠することなく自己を掴みとるという可能性の前に置くのである。わたしはいわば、「日常の世界か、それとも、あなた自身の『ルビコン』か?」という二者択一を突きつけられるのであって、後者の選択肢こそが、「本来的な実存」という未曾有のものへの入り口である。すなわち、『存在と時間』の論理によれば「最も根源的な真理」であるところの、わたし自身の「実存の真理」すなわち「最も固有な存在可能」を決定的な仕方で開示することへの入り口に他ならない
 
 
 
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 「死への先駆」に関する議論を締めくくるにあたって、ヘーゲル精神現象学』の、次のよく知られた一節を思い起こしておくことしたい。
 
 
 「力のない美は悟性をきらう。それは、悟性が美の果たしえないことを求めるからである。だが、死を避け、荒廃からきれいに身を守る生ではなく、死に耐えて死のなかに自己を支える生こそは、精神の生である。」(『精神現象学』序論より)
 
 
 「哲学は死などという陰鬱なものについて考えるべきではない」という見方はいわば、自己を偽るものなのであって、必要なのは「死に耐えて死のなかに自己を支える」こと、すなわち、紛れもない真実のただ中でおのれ自身の存在を掴みとることに他ならないのではないか。この意味からすると、ハイデッガーの言う「死へと関わる自由」とは、真実のうちでおのれの「最も固有な存在可能」へと突き入ってゆくことの自由を意味するのではないかとも思われるのである。
 
 
 ヘーゲルが上の一節で「悟性」、すなわち、概念によって思考する力との関わりにおいて「死」について語っていることに、改めて注意しておきたい。美の臨界点において、美がもはやおのれ自身の輪郭を保ちえず、砕け散ってしまわざるをえないその一点において、思索は、思索することによってしか掴みとることのできない「死の中で自らを支えるという最も固有な存在可能」を見出し、開示する。これこそが、哲学が現代という時代へと突き入ってゆき、「実存」という概念に正面から向き合わされた時にはじめて出会わざるをえなかったところの、人間存在の自由なるものをめぐる根源的な真実に他ならないのではないか。すなわち、実存の深みにおいて生きられるとき、自由とはまさしく「死へと関わる自由」以外のものではありえないのではないだろうか。キルケゴールからハイデッガーに向かって、一本の思索の矢が放たれている。「死へと関わる本来的な存在」をめぐる『存在と時間』の議論の本質的な達成は、この矢が指し示していた可能性の中心を再び根源的な仕方で射抜き、開示することによってこそなされたのだと言うこともできるだろう。
 
 
 私たちは以上をもって、「死への先駆」をめぐる議論を終えた。次には、この比類のない自由であるところの「死へと関わる自由」を生きるとは具体的にはどのようなことを意味するのかを探るために、「良心の呼び声」の分析へと進んでゆかなければならない……のであるが、私たちはその前に、いくつかの補足と準備作業を行っておくこととしたい。それらのことを果たし終えた後には、私たちの前にはいよいよ、20世紀の哲学史においても最大の難所の一つであるところの「内なる呼び声」の領域が開かれることになるはずである。
 
 
 
 
[四ヶ月ほどかけて論じ続けてきた「死」に関する議論も、今日でようやく終わらせることができました。かなりの時間がかかってしまいましたが、「実存」の概念が指し示している生の深淵を決定的な仕方で開示する「死への先駆」には、それだけの時を費やすだけの意義が十分にあったのではないかと思っています。読解にお付き合いいただいた方々には、ただ感謝というほかありません。『存在と時間』の思索を、その深みにおいて、根源的な仕方で経験し直すような読解を目指して引き続き励んでみますが、気の向いた時だけでも読解に付き合ってくださるなら、これ以上の喜びはありません。]