イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「わたし自身が、わたしにとって謎となる経験」:実存論的分析のテーゼ「呼び声は通り過ぎる」を検討する

 
 良心の呼び声についての考察を深めるために、「呼び声は通り過ぎる」とハイデッガーが語っている事態について、掘り下げて考えてみることにしたい。
 
 
 「現存在は、他者たちとじぶん自身にとって現存在として世間的には理解されている。そのような現存在が、この呼びかけにあってはとおり過ぎられる。[…]まさしくこのとおり過ぎることにあって呼び声は、公共的な威信にかまけている〈ひと〉を無意義性のなかへと突きおとす。自己はいっぽう、呼びかけられたことにおいてこのような避難所や隠れ家を奪われて、呼び声によってじぶん自身へと連れもどされるのである。」(『存在と時間』第56節より)
 
 
 ここでの「通り過ぎ」について、二つの観点から事柄を捉えてみることにしよう。
 
 
 ① まず、良心の呼び声は、〈ひと〉の公共的な語りの世界を通り過ぎてゆく。すなわち、内なる呼び声は「〈ひと〉と同じように語り、〈ひと〉と同じように行え」とは決して語ることがない。呼び声はまさしく、誰でもない〈ひと〉であることに向かって呼び出すのではなく、「他の誰でもない、固有の自己であること」に向かって呼び出すのである。
 
 
 ② 上の意味における「通り過ぎ」についてはこれまでの考察においてすでに見てきたが、「通り過ぎ」にはもう一つの側面があることにも注意しなければならない。それは、内なる呼び声は現存在であるわたし自身の予期や予想をも超えて、すなわち、呼び声を聞いているわたし自身の思惑をも「通り過ぎる」ようにして呼ぶという事態にほかならない。
 
 
 良心の呼び声を聞くとは、「〈ひと〉の言うことを聞かずに、自分自身の勝手気ままに生きる」ということをいささかも意味しないのである。むしろそれは、時には自分自身の意志に反してすら呼ぶような呼び声に対して、沈黙のうちに耳を傾けることを意味する。現存在であるところの人間の奥底から鳴り響いてくる「内なる呼び声」は、「生の奔流のただ中にあって、あなた自身であれ!」という、ある時には静かな、またある時には断固とした呼びかけによって、人間自身に働きかけてくる。この呼びかけはある意味で、呼ばれているその人の「わたし自身」をも超えて呼びかけてくるものに他ならないのである。
 
 
 
現存在 良心の呼び声 ハイデッガー 存在と時間 最も固有な存在可能 先駆的決意性 実存
 
 
 
 先に引用した箇所の最後の部分を、もう一度引いておくこととしたい。
 
 
 「自己はいっぽう、呼びかけられたことにおいてこのような避難所や隠れ家を奪われて、呼び声によってじぶん自身へと連れもどされるのである。」(『存在と時間』第56節より)
 
 
 この箇所から分かるのは、現存在であるところのわたしにとって、「呼び声が呼ぶ」という経験は、「わたし自身が、わたしにとって謎となるような経験」に他ならないということではないだろうか。
 
 
 呼び声の経験にあっては、わたしがこれまでに獲得してきたもの、築いてきたもの、作り上げてきたものが、ことごとく「通り過ぎられる」のである。そうして、いかなる避難所も隠れ家もないままに、現存在であるわたしは自分自身の「最も固有な存在可能」に向かって呼び出される。この「最も固有な存在可能」とはわたし自身が思い描いたり、案出したりした想像をはるかに超えて、呼び声によって、呼び声の側から示されるものなのであってみれば、生とはわたしにとって「謎あるいは問題 quaestio」以外の何物でもないということになるのではないか。呼び声に呼ばれる人間にとっては、「わたしとは誰か?」「わたしは何をするために生まれてきたのか?」といった問いはもはや、自分自身にとって無縁なものではありえない。自己自身の問題化、問題構成としての生のあり方が、呼び声の呼びかけを通して示されるということである。
 
 
 1927年に出版された『存在と時間』のうちでは、哲学の道を歩む人間にとって根底的に重要な意味を持つ、一つの問いが鳴り響いている。その問いこそが、「わたしはいかに生きるべきか?」という問いの中の問いに他ならないのであって、この本の議論においては、この問いが「存在の問い」という、もう一つの問いの中の問いと分かちがたく結びつけられているのである。哲学する人間は、存在の意味へとたどり着くための鍵としての自らの「最も固有な存在可能」を、問う人間としてのおのれ自身(学的=探求的実存として実現される、「先駆的決意性」)を発見する。私たちはこの問いの絡まり合いを解きほぐすことに向かうためにも、一歩一歩、じっくりと進んでゆくこととしたい。
 
 
 
 
[最後の部分について、もう少し補足しておきます。「死への先駆」と「良心の呼び声」に関する実存論的分析の結果取り出されてくる「先駆的決意性」の構造をさらに分析してゆくと、人間存在の根源的なあり方が「時間性」として見出され、この時間性こそが「存在の意味」として浮かび上がってくる、というのが『存在と時間』の大まかなストーリーになっています。この本のうちでは、「いかに生きるべきか?」という問いが、最終的には「存在の意味とは何か?」という問いへと結びつけられてゆくことになると言うこともできそうです。良心の呼び声に関する議論は、この本の読解の範囲を超えて重要なものであると思われるので、じっくりと詰めてゆくことにしたいと思います。粘っただけのことはあったと言えるような成果が出せるよう努めてみますが、気の向いた回だけでもお付き合いいただけるなら、これ以上の喜びはありません。]