イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「本来的なわたし」なるものが、果たして本当に存在するのか?:「良心の呼び声」の分析へ

 
 『存在と時間』読解は、今回の記事から「良心の呼び声」の分析に入ることとしたい。これまでの議論に対する次のような疑問を提起してみることを通して、本格的な分析に入ってゆく上での導入を試みてみることにしよう。
 
 
 これまでの『存在と時間』の議論に対する疑問:
 人間存在にとって、「本来的なおのれ自身」などというものが果たしてありうるのか?あるいは、哲学の事柄としてそのようなものについて語ることは、どこまで可能なのだろうか?
 
 
 このブログにおいても、特に最近の記事ではほぼ毎回のように言及してきたが、『存在と時間』という本においては、「最も固有な存在可能」や「本来的な自己存在」のような概念が、議論において非常に大きな役割を果たしている。分かりやすい言い方で言い直すならば、「現存在であるところのわたしが、『本当のわたし自身』を見出すこと」が、この本の主要なテーマの一つになっていると言うこともできるだろう。
 
 
 しかしながら、「本当のわたし自身」といったような曖昧にも見える事柄について哲学の言葉で語ることが、果たしてどこまで可能なのだろうか?そもそも、「本当のわたし自身」なるものが、本当に存在すると言える根拠は、どこにあるのだろうか?
 
 
 これが仮に、ハンナ・アーレントのごとき従順にして素直な心の持ち主ならば、『存在と時間』を読むとしても、議論はすべてストンと腑に落ちることであろう。そして、実にナチュラルに、「なるほど、『最も固有な存在可能』なんていうものがあったのね……納得だわ。それじゃあ、現存在であるこのわたしにとっての、『本当のわたし自身』って何?わたしは一体、何をするためにこの世界に生まれてきたのかしら……?」と自問してくれたりするかもしれない。このくらい素直に議論を受け止めてもらえるとするならば、本の著者としてもまことに本望なのではないかと思われる。
 
 
 しかし、世の中にはそれほど素直な人ばかりとも限らないのであって、どこかの時点で「『本来的なおのれ自身』なんて、そんなものがあるなんてどうして言えるんですか?」といった類の反応がやって来ることは、おそらくは避けられないものと思われるのである。ハイデッガーの実存論的分析はこういった疑問に対して、果たして何を答えることができるのだろうか。
 
 
 
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 哲学の歴史における『存在と時間』の立ち位置を考えてみるにしても、カントやフッサールのような、ある意味では手堅いとも言える先人たちの仕事に比して、「最も固有な存在可能」や「本来的な自己存在」のような概念が、少なくとも一見したところでは、多少なりとも危うげなものに見えてしまう側面があることは否定しがたい。もっともこれは、『存在と時間』という本の全体についても言えることなのであって、たとえば、後年にはハイデッガーの熱心なフォロワーの一人にもなったフランスの哲学者、ジャン・ボーフレは、最初のうちはハイデッガーのことを、ある種の怪しい哲学者なのではないかと思っていたことを告白している。不安や死、そして、良心の呼び声など、『存在と時間』はこう言ってよければ、実存的に見て「あまりにもエキサイティングな」話題のうちに決然と突き入ってしまっている、ということなのだろう。
 
 
 本題に戻ろう。「『本来的なおのれ自身』というものが存在すると、なぜ言えるのか?」という疑問に対するハイデッガーの回答は、次のようなものである。
 
 
 ハイデッガーの回答:
 「良心の呼び声」の現象こそが、本来的な自己でありうることの証(あかし)を与える。
 
 
 「証を与える」という表現は、「証明する」と言い換えることもできるであろう。良心の呼び声は、もちろん理論的な仕方における証明という意味においてではないにせよ、現存在であるところの人間が、本来的な自己でありうることの証明を与える。すなわち、内なる呼び声が、わたしが「本来的なわたし自身」でありうるという可能性に向かってわたしを呼び出しながら、この可能性の真正さを請け負うのである。わたしの実存の本来性は、この呼び声を理解しつつ、呼び声に聴き従うことを通して実現されるのであって、これこそが、『存在と時間』の言うところの「決意性」の現象にほかならない
 
 
 問題は、「呼び声」なるものをいかにして理解するかという点にかかっている。この表現が単なる比喩でも、曖昧な詩的形象でもなく、事象そのものの真正なあり方を射当てるものであるのだとしたら、私たちは「良心の呼び声」なるものについて、どのように考えたらよいのだろうか。以下、できる限り私たち自身の実感に即したものとなることを心がけつつ、実存論的分析の歩みをたどってみることとしたい。私たちは、良心現象の分析を通して、『存在と時間』が語り出そうとする人間存在の根源的なあり方が、これまでにもまして明確に浮かび上がってくるのを目にすることになるはずである。
 
 
 
 
[今回の記事から、『存在と時間』読解は「良心の呼び声」の分析に入りました。この箇所は率直に言って、この本の議論の中でも最もスルーされやすい箇所の一つなのではないかと思います。というのも、「〈ひと〉」や「死」のように、ある意味では分かりやすいとも言える主題に比べて、「呼び声」というのはどうにも捉えどころがなく、曖昧なもののようにも思われるからです。しかし、その一方で、この主題は「人間存在が、本来的なおのれ自身を掴みとること」というテーマの中核に位置すると共に、後期ハイデッガーの思索へとダイレクトにつながってゆくという意味でも非常に重要なものとなっています。今回の読解では、できる限りリアルに、かつ明晰な仕方で「呼び声」の問題圏に迫ることのできるように試みてみたいと思います。]