だんだん自分でも何を書いているのかわからなくなってきましたが、今回は、人間疲労なる概念から考え始めてみることにしたい。
もうイヤなんだ、人間は。仮にそう思うことがあったとしても、それがあくまでも一時的なものである場合には、元に戻る可能性もまだ残っています。しかし、この倦怠が期限なしということにでもなれば、その時には信号は黄色から赤色に変わっていると言わざるをえないのではないか。
闇堕ちの定義:
闇堕ちとは、人間相互のコミュニケーションに対する半永久的な絶望に陥ることである。
もう止めだ。もうこれからは、僕は/私は、人間には一切期待しない。誰かが自分の心の隙間を埋めてくれるということもないけれど、この世とは元々そういうものであった。闇堕ちとは、ここでは、人間とはとどのつまり生まれてから死ぬまで本当はただ一人であるという、醒め尽くした価値観を受け入れることを指すこととします。
軽い人間疲労なら、五月病をこじらせたくらいで済むかもしれません。しかし、完全な闇堕ちとなると、あとはもう、待っているのは見渡す限りの砂漠です。そこには、孤独と嘘からなる乾いた風景が、眼前にどこまでも広がっています。
というよりも、孤独と嘘を何らかの寂寥感とともに味わっているうちは、まだその人には救いの可能性が残されているといえるかもしれません。闇堕ちが極まると、人はおそらく、もはや苦痛すら感じなくなるのではないかと推察されるからです。
この瞬間、まわりの人間はほぼ全員が同胞ではなくなり、敵あるいは何らかの利用価値でしかなくなります(あとはただ「狼は共食いをしない」という諺にもとづく、闇堕ちしたもの同士の黒い協調関係のみが、辛うじて残りうる)。この事態は、いわゆるサイコパスへの覚醒と呼ばれる出来事に何らかの深い関連性があるのではないかと思われますが、哲学者である筆者としてはその点について心理学的な判断を下すことはとりあえず控えつつ、目下のところは闇堕ちという概念にとどまることにしたい。
さて、闇堕ちしてしまった人にもしも出会うことがあったとしたら、その際にはできるかぎり早くその人から遠ざかっておいた方がよいのではないか。
バトル・ロワイヤルあるいは荒野行動の場合には言うまでもなく、日常生活においても、逃げるに越したことはないような気もします。ともあれ、人間疲労と闇堕ちというこの概念対をめぐって、もう少し踏みとどまって考えてみることにします。