イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超絶を超絶として思惟するという形而上学的課題について

 
 論点:
 人間が超絶を渇望せざるをえないことの必然性は、論証あるいは演繹の対象にはなりえない。
 
 
 認識の主体であるわたしを超絶する他者とわたしとの関係は、その本性からして当然、わたしの意識の内側にはおさまりきることがない。だからこそ、たとえわたしがある謎めいた、しかし抗うことのできない必然性によって他者の存在を求めずにはいられないとしても、わたしにはその必然性の由来を知ることは不可能であるということになるのではないか。
 
 
 究極的孤独、すなわち、他者の全き不在がそのまま死を意味することは、私たちのうちの誰もが直観し、同意するところであるだろう。人間はすべての他者の消滅を、あるいは、世界そのものの消滅をすら望むことができる。しかし、このような望みはおそらくは、人間が自己自身の消滅を望むことに等しいのではないだろうか。
 
 
 わたしは、他者であるあなたが存在することを求めている。究極的には、あなたがわたしの望むものを与えてくれることでも、あなたがわたしの望む通りのあなたであることでもなく、ただ、あなたがわたしの意識の構成を超えるものとして存在することを求めている。わたしは、他者の超絶を渇望している。ただ生きてゆくためだけにであっても、わたしには、わたしを超絶する他者が存在することがどうしても必要なのである。
 
 
 
 他者の超絶 エマニュエル・レヴィナス 形而上学 存在の超絶
 
 
 
 超絶へのこの渇望の由来を自然的存在であるかぎりの人間の特質に還元すること、すなわち、この渇望の出自を自然科学の立場から説明しようと試みることは、おそらく常に可能ではあるだろう。
 
 
 しかし、その場合には超絶は必然的に何らかの内在に、世界内で認識される何らかの事物的な連関へと還元されてしまう。渇望を快や社会的欲求へと還元すること、あるいはそれに進化生物学的あるいは動物行動学的な説明をほどこすことは、たとえ何からの妥当性を持ちうるとしても、その原理から言って他者の超絶のモメントそのものを扱うことができない。超絶は、その意味では厳密に形而上学の領域に属するのであって、何らかの世界内的な事象を取り扱う学の領野には決しておさまりきることがないのである。
 
 
 現代においては、エマニュエル・レヴィナスがこのことを明確に指摘したほとんど唯一の哲学者であったと言えるのかもしれない。しかし、古代から中世に至る哲学の伝統は、絶対他者であるところの神の探求を通して、超絶を超絶として思惟する試みにほかならなかったとも言えるのではないだろうか。
 
 
 筆者の哲学は他者の他者性を存在の超絶として思惟することを通して、打ち棄てられているこの伝統がかつて生み出した成果に、それにふさわしい地位を再び与え返そうと努めている。私たちが私たちの生において日々隣人たちと関わりながら生きているということは、本当は一つの形而上学を必要とするほどに驚異的な、魂の底から震撼すべき事実であるといえるのではないか。私たちの哲学的営為は、これまで通り過ぎられてきたこの事実の前でこそ立ち止まるよう努めなければならない。