いやいや、よかったよかった!天に感謝である!
「何かあったんですか?」
なくしたと思ってたマフラーが見つかったのである!いやいや、ほんとに危ないところであった!
今日の午後、喫茶店を出て気分よく歩きはじめたと思ったら、なんだか首まわりが寒い。お店に忘れたなと思って戻ったんだけど、マフラーはどこにも見当たらない。
そこからはもう半狂乱である。おぉ、愛しい僕のマフラーよと色んな場所を探しはしたけど、どこを探しても見つからない。しかし、マフラーちゃんのいなくなった悲しみに涙を流しまくりながら、ボロボロのわが心に一つの思考が浮かんできた。
仮に、喫茶店に行くまでの道のりでマフラーを付けていなかったとしたら、首のあたりが寒すぎて、僕はなくしたことに気づいていたはずである。なぜならば、プリティーチャーミングな僕は極度の寒がりであるため、少しでも寒かったらすぐに全身がぶるぶるしちゃうゆえに。
「……はぁ。」
ワトソン君この事件は解けた、あるといいなあるといいな僕のマフラー、もうなかったらほんとに僕の人生はどん底である、おお、寒い、寒いよ僕の首まわりがと思いながら再びその喫茶店を訪れたら、あったのである、マフラーが!愛しのマフラーちゃんは、椅子の下に隠れて僕を待っていたのであった。もう離さないよマフラーちゃん、いやそれにしてもあってよかったよありがとうありがとうと思いながら、首まわりの暖かさに最大級に感謝しつつ、僕はその喫茶店を後にしたのであった……!
なくしたものが見つかるって、別に得はしてなくてもめちゃくちゃ嬉しいものである。ハイデッガー的に考えるならば、道具の紛失という事態を通して、かえって世界内存在としての現存在(=人間)のあり方が示されたとも言えるかもしれぬ。
マフラーという道具はそれまで、冬の寒い空気から僕の首まわりを守ってくれていた。しかしそれが一度見失われ、つづいてそれが再び見出されることによって、この道具のまわりに張り巡らされている連関(「道具的連関」)が明らかになったのである。
おぉありがとう僕のマフラーよ、あたたかい僕の首、冬の空気の肌寒さすら今は愛しく、自然と人間の世界をめぐる存在忘却から解き放たれた僕としては、ただもうこの巡り合わせを与えてくれた「存在 Seyn」に感謝せずにはおられなかったのである。
というわけで、この日は結局合計で一万五千歩以上歩いたとはいえ、マフラーちゃんを失わずに済んだことがありがたくてならなかった一日であったが、ひるがえって考えてみるならば、こうして平和な毎日を送ることができているということ自体が、そもそも感謝につぐ感謝なのである。天からの恵みをあらためて強く思わされたところで、今日の記事を結ぶこととしたい。