イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在のざわめき:世界とは共同世界である

 
 世界が世界であることには全体性という契機が関わっているとして(前回の記事参照)、この全体性なるものは、果たしてどこまで広がっているものなのだろうか。
 
 
 『存在と時間』におけるハイデッガーの主張:
 わたしが生きる世界はそのまま、わたしがそこで他者たちと共に生きている共同世界でもある。
 
 
 いずれ後に詳しく論じることになるけれども、現存在、すなわち人間が存在しているということはそのまま、他者たちと共に存在しているということでもある。現存在の存在とはそのまま「共同存在」なのであって、他者との関係を「わたしの生」に後から付け加えたりするのではなく、「わたしの生」は最初からダイレクトに他者たちとの共生の次元に開かれているとするのが、『存在と時間』における実存論的分析の特徴であると言ってよいだろう。
 
 
 共同存在という、この人間のあり方についての論点はひるがえって、世界と、世界内の物の連関を形づくっている、道具という存在者のあり方にも関わってくる。
 
 
 たとえば、わたしが毎日歩いている道、駅までの距離を歩いているその道は、当たり前のことではあるけれども、わたしだけのものではない。そこには、わたしが全くその素性を知らないたくさんの人々もいて、彼らもまたわたしと同じように、その道を毎日のように使っている。道とは公共的な道具(ハイデッガーの用語法には、私たちが普通は「道具」とは呼ばないような大きさのものも含まれる)なのであって、いわば、誰のものにもならないということが、道が道として用いられるそのあり方なのである。他の人々と同じような一人の〈ひと〉として道を歩くという経験は、世界とはそのまま共同世界でもあるという『存在と時間』の主張には一定の理があるということを体感させてくれるものであると言えるだろう。
 
 
 
存在と時間 ハイデッガー 現存在 存在のざわめき 
 
 
 
 「この〈共に〉を帯びた世界内存在にもとづいて、世界はそのつどすでにつねにわたしが他者たちと共に分かちあっている世界なのだ。現存在の世界は共同世界であり、内存在とは他者たちとの共同存在である。」(『存在と時間』第26節より)
 
 
 わたしがわたし自身の実存を生きるのと同じように、わたしは、わたし自身の世界を生きる。これは、『存在と時間』における世界論を普通に読むことから導かれてくる、まっとうな帰結の一つである。
 
 
 しかし、それではその「わたし自身の世界」は他の人間たちに対して閉ざされているのかというと、全くそんなことはないのである。ハイデッガーのような哲学者からすれば、「世界とは、ひょっとしたらわたしの見ている世界に過ぎないのではないか」といった類の疑いは、生を生きることに対して後から理論的に付け加えられた、頭の中だけにしか存在しない夢想にすぎない。わたしがすでに生きてしまっているその世界は、生きてしまっているその時点で、他者たちと共に存在する「開かれた世界」にほかならないのである。
 
 
 最もプライベートなものの一つであると思われる「わたし自身の部屋」なるものについて、考えてみる。たとえ、わたし自身のほかにはほとんどその中に入る人間がいないとしても、現代を生きる私たちが住んでいる私室のうちに置かれているものはほぼすべてが、何らかの製品であり、かつて、商品として買われたものである。
 
 
 机、ごみ箱、本、衣服などといったさまざまな物たちは、無数の人々の手を通して今のこの「わたし自身の部屋」にまで届けられたのであろう。そこには数え切れないほどの工場が、船が、飛行機が、車が、企業と商店が関わっていたことだろう。「わたし自身の部屋」とはいわば、端から端まで幾重もの層を張り巡らされた公共世界の目もくらむような錯綜の末端に存在することを許されている、相対的にみて静態的な一空間にすぎない。現象学の仕事はここでは、静けさを保っている居心地のいい小空間のうちに、人間たちが共生することから生まれる「存在のざわめき」の広大な広がりを予感することのうちでなされると言ってよいだろう。