イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ケアをする人、される人

 
 引きこもるという体験のうちでは、公共圏からの圧迫を和らげる役割を果たしていた親密圏(詳細については、以前の記事を参照)のプレゼンスが、極めて大きなものとなってきます。家族や恋人、友人同士の関係はこの時点から、ケアする人とケアされる人の関係としての性格を強めてゆくことになるわけです。
 

 ケアする人は、公共圏からドロップしそうになっている人、あるいはドロップアウトしてしまった人を、必死にそこへの復帰へと引き戻そうとし、あるいはそれが不可能ならば、せめてその健康または生存を維持しようとします。ケアされる側の人の方では社会との繋がりが既にことごとく切れかかっているので、彼あるいは彼女にとっては、ケアをする人こそがその人と社会とを繋ぎとめる最後の絆になっているといえます。
 

 かくして、社会から個人への経済的要求は今や、双数的なコミュニケーションの関係に取って代わられ、引きこもる人間の世界は「わたしとあの人」の世界へと縮減されます。ここで注意しておくべきなのは、この関係はそもそもの最初から、必然的な失敗が運命づけられているということです。
 

 すでに見たように、引きこもった人間=ケアされる人が求めているものは、純粋愛、あるいは愛の純粋贈与に他なりませんでした。この求めは、経験的には「誰の役に立たなくても、あなたは存在しているだけでいいのだ」というメッセージを含んだケアを求めることとして現象してきますが、言うまでもなく、このようなケアを完璧に行うことのできる人間はこの世に存在しません。
 

 ケアされる側も人間なら、ケアをする側も同じ人間です。次第に蓄積されてゆく疲労と焦燥の中で、ケアの関係が、どこかの時点で危機的なモメントを通過することになるのは避けがたいのではないかと思われます。
 
 
 
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 ケアする人とケアされる人の関係は、その関係の当初には極めて理想的なものに見え、時には、ほとんどこの世離れした様相を見せることすらありえます。それというのも、この関係にはその相関項として、純粋愛の理念が常に伴っているからです。
 

 ケアされる人からはケアを人の姿が、まるである種の聖人のように見え、ケアをする人自身の方もまた、自分自身が病人を癒す奇跡を行っているような感覚に捉えられます。これはいわば、純粋愛の理念の周縁に生まれる幻影的な効果のようなものですが、ケアの関係のうちにある当人たちに対しては、このような感覚が極めてリアルなものとして迫ってこざるをえません。
 

 「わたしを救ってくれるのは、あの人しかいない」あるいは「あの人を救うことができるのは、わたししかいない」。双数的なケアの関係に際して生まれてくるこのような感覚とどのように向き合うべきかというのは、非常に難しい問題です。
 

 この感覚を一種の幻覚として完全に切り捨ててしまうことは、おそらく、ケアという行為そのものの存立を危ういものにしてしまいかねません。それでも、ケアの関係のうちにある人間たちは、そのどちらもが、「この関係において問題となっているものはあくまでも純粋愛あるいは愛の純粋贈与の理念であり、この理念を完全な形で実現することは原理的に不可能である(cf.転移の愛は、純粋愛の経験面への投射にすぎない)」という事実をどこかで心に留めておく必要があるのではないだろうか。
 

 社会的な次元から一歩引っ込んだ実存の次元においては、このように、聖人や治癒の奇跡といった非日常的な形象が浮かんでは消えてゆきます。その意味では、ケアが行われる現場には、この世のうちに存在しながらも、どこかこの世に属していないような側面があると言えるのかもしれません(分析主体は長椅子の上で、天界を仰ぎ見る)。